厳しい顔・優しい顔

 浄霊に関してはこれほどまでに厳しい總斎であったが、しかしこの厳しさには、同時に信徒に対するいたわりと優しきが伴っていた。愛情があればこそ厳しくその人を育てようとするのであるから、厳しさと優しさは矛盾するものではない。例えば、總斎は自分の行なう浄霊を通して、感謝の気持ちを患者に教えようとしていたこともたびたびあった。

 これは、山口県の防府で布教活動を行ない、のちに春栄教会長となった田原和子の話だが、ある時、浄霊を取り次いでいた總斎が、前に座った田原にサッと手を上げるなり、「どうだ」と訊ねた。今浄霊が始まったばかりだから、總斎にどうかと聞かれても答えようがないので、
「はあ、まだ肩のほうが……」 
 と答えると、 
「まだ肩はしていない。どうだと言われたら“ありがとうございます”と感謝の気持ち、その言葉を口にすれば、曇りはスッと消えるのだ。とかく人は感謝する心が足りない」 
 と、注意を与えた。

 總斎の浄霊は目に見える病だけを癒すものではない。浄霊という救いの方法を通して、人間のあり方、普段の人間のちょっとした心の持ちようを伝えようとしていたとも思える。

 また田原和子は昭和二十三年から四年間、当時小田原にあった五六七<みろく>教会の別院に奉仕をした。最初に總斎から、
「叱られ上手になれ」
 と言われ、何か失敗があると呼ばれて叱られる。まったく知らぬことについてさえ叱られるということが続いた。叱られ上手といっても、これではあんまりだ。叱られすぎて気が滅入ってしまう。

 そんなある日、熱海清水町の仮本部で会合が開かれた時のこと、一人の奉仕者が手違いをした。その上、失敗の言い訳をくどくどと始めた。明主様はその人物を、大勢の前でたいへん厳しく叱責した。これを見ていた田原は、あとで總斎に、
「大先生(明主様)のような偉い方が、なぜあのようにお叱りになるのでしょうか」
 と、訊ねた。すると總斎は、
「人はそれぞれ、一生のうちに浄化せねばならないものをいろいろと持っている。それをさまざまの形で浄化し、そのたびに罪穢れが消えていくのだ。たとえ自分の知らぬことで叱られても、それにより一つひとつ罪穢れは減っていく。ところが、言い訳をすると、消える罪が消えずに増えることになる。大先生はそれをかわいそうに思われ、一つひとつ消えるように叱ってくださるのだ。それと、二度と同じ過ちを繰り返さぬためにも……」 
 と、説明してくれた。田原は、これは總斎が自分に“叱られ上手になれ”という本当の意味を易しく教えてくれたのだと思い、明主様や總斎の叱責には、人を救う大慈悲のあることを悟ることができたのである。それからは気の滅入ることもなく、自ら叱られ役を買って出るようにさえなった。このことは、總斎の“小さき者”に対する優しさや愛情を物語っているといえるだろう。

 これは小田原別院で奉仕していた神田宗次が、幽門狭窄の大浄化を経験した話である。彼はその浄化の激しさに死を感じ、もう駄目だと覚悟せざるを得なかったが、心配した奉仕者が東京の總斎に電話をしたところ、總斎は忙しい中を上野毛の宝山荘から小田原まで急ぎ飛んできたのである。總斎は浄化した者が休んでいる部屋に駈けこんで、いきなり鼠蹊部辺りに浄霊を始めた。すると、今まであれほど苦しんでいた地獄のような苦痛が一度に治まって嘘のように楽になった。

 この浄霊を受けて、神田は總斎のことを「神様か明主様のように拝さずにはいられなくなった。ついには、それは總斎であったのか明主様であったのか、そんなことはどちらでもいいように思えた」という。

 おそらく彼は、神秘的な何か圧倒される一つの力を感じたのであろう。たとえ總斎にすがり明主様に感謝する気持ちには変わらなくとも、總斎の背後に明主様を見、さらにその背後に絶対的な神の姿を感じたのであろう。

 じっと患者の表情を見ている總斎の、その慈顔に浮かぶ喜びと安堵の眼差しの有り難さは、この總斎の優しさに触れたものしか体験できないことであった。