見真実

 この啓示を境にして、霊界研究の歩みは大きな転回点を迎えた。それまで書物を中心に続けられてきた探究から、霊的な力によって人々の悩みを救い、幸福へと導く、救いの業の在り方、すなわち、具体的救済法の確立という実践面へと進展していくのである。

 教祖がいっさいをかけて、ひたすら没頭したのは、当時大本で応用されていた「鎮魂帰神法」(魂を落ち着けて無心となり神と一体化すること)である。これは古神道(仏、儒、渡来以前の古代の神道)に伝えられる秘法の一つで、仏教の禅に一脈相通ずるものがある。まず手を組み、端座瞑目して自己の霊性の発動を図り、神との一体化をめざす修行法である。この行を重ねることによって、神から力を授かり、その力によって病を癒すことはもちろん、さまざまな奇蹟をこの地上に現わすことができる、とされているものである。

 教祖は、大本に身を置き、大本によって古代の世界から甦った鎮魂に没頭する一方で、昭和元年(一九二六年)の啓示を胸中深く秘め、神秘な神霊の力による救済の働きに、その証しを真剣に探し求めたのである。

 そして、家族、使用人はもとより、知人、縁者など、多くの人々に全身全霊をあげて鎮魂を施した。果たせるかな、救いの力はすばらしく、奇蹟的な治癒が相次いだ。難病人、重病人も次々に救われていくという具合であった。その評判を伝え聞き、多くの人が教祖のもとを訪れた。しかも、奇蹟は病気治癒ばかりではなかった。

 「当時私の生活は奇蹟の連続であった。疑えば疑ふ程その疑ひを解かざるを得ない奇蹟が現はれる。」

と書いている。また、何か知りたいと思うことがあれば、なんらかの形や方法でその解答が示されるという奇蹟も続いたので、

 「そうだ確に神はある。それもすこぶる身近かに神は居られる。否私自身の中に居られるかも知れない。」

と信じるようになった。

 教祖はそれまで、さまざまな道をめざしたが、志なかばで行手をさえぎられては、そのたびに絶望の底に突き落とされたのである。しかしみずからが神に選ばれ、大使命を帯びてこの世に出生したことを得心した今、すべては神の導きによるものであったことを覚ったのである。

 こうして教祖は、人類が等しく願ってやまない天国世界を、この地上に建設するために、絶大なる救いの力と智慧を神から授けられたことを自覚し、救世の大業に専心していくのである。

 神から下された啓示のもつ真意を解くための探求が続けられていたさなか、大本の本部へ行って出口王仁三郎と話す機会があった。その時出口は種々語る中で、
 「あなたは今後、病気治しをすれば、何ほどでも治すことができる。大いにやりなさい。」
 「あなたが仮にコップに水を入れ、これは薬だから飲めといえば、それが薬になるんですよ。」と言うのであった。この発言から判断するに、自身、偉大な霊能者であった出口は、かねてから教祖の霊格や使命などを理解していたと考えられる。

 このように身辺に現われるさまざまな事象を通し、また、与えられる直接の啓示によって、神から与えられた使命が、すでにある大本の教義や定めを越えているもののあることを痛感するにいたった。大本の中にありながら、その定められた法を越えることば人間的につらいことであった。しかし、神は啓示の実行者が教祖であり、ほかに道はないと迫るのである。与えられた道を曲げることは許されない。教祖はその道程がどんなに困難な道であるかを十分に知りつつも、あえて独自の道を歩み始めたのである。この時、魂の奥底に始まっていた胎動は、その後、数年を経て具体的な神業となって示されていくのである。

 昭和元年(一九二六年)、三か月にわたった神憑りのあと、その啓示の内容に疑心を起こした教祖であったが、さまざまな事実を通し、確信を深化徹底した今は、もう、一点の疑う余地もなかった。むしろ逆に、神が実在し、その神から自己に与えられた使命が、確かなものであることを信じ、確固とした自覚を得たのである。そのことを、

 「偉大なる何物かが私を自由自在に操り、一歩々々神の世界の実在を、奇蹟を以て会得させた事で、その際込み上げて来る歓喜をどうする事も出来なかった程である。この気持たるや幽幻至妙言葉では現はせない心境であった。しかも相変らず奇蹟続出で、興味津々たるものがあった。一日の内に何度心が躍ったかは分らない。」
と書き、また、

 「私の腹には光の玉がある。これはある最高の神様の魂であるから、私の言動すべては神様自身が、私を自由自在に動かしているのである。」

とも記している。

 こうして、たゆまざる研鑚の結果、神示を契機としてみずからの腹中に光の玉が鎮まるとともに、それが最高の神霊であることを実感して、

 「自由自在に私の肉体を使はれるのである。全く私を機関として一切衆生を救はせ給ふのである。」

という不動の自覚に到達したのである。そして、その心境をつぎのように和歌に詠んだ。
いかなれば吾れはこの世に生〈あ〉れにしと永きうたがひ解きし御教

思いきや賤〈しず〉の男〈お〉の子〈こ〉の現身〈うつそみ〉に宿かり給う観音畏〈かしこ〉し

 ここにおいて、教祖は揺ぎない自覚と透徹した智慧の裏付けをもつ境地を、みずから「見真実」*と呼んだ。この見真実の境地とは、かつて人類が歩んできた道、これから歩もうとする道を見通し、過去の誤りを看破するとともに、人類の未来のあるべき姿を正しく指摘しうる境地である。それはちょうどピラミッドの上に立って、その頂上から四方を俯瞰するようなものである。そのことを、

 「今日迄の宗教を初め、哲学、教育、思想等凡ゆるものは一切に対し或程度以上の解釈は不可能とされ、深奥なる核心に触れる事は出来ないとされた。彼の釈尊は七十二歳にして吾見真実となったと云ひ、日蓮は五十余歳にして見真実となったと言ふ事であるが、見真 実とは、前述の核心に触れた事を言ふのである。」

と記している。

 *教祖は至高の覚りの境地を、きわめて普遍的な言葉で「見真実」と呼んだ。これは文字通り「吾、真実を見る」ということである。この言葉から思い起こされるのは、釈尊が説いた『無量義経〈むりようぎきよう〉』の中に見られるつぎの一文である。

 「種々に方便力を以て説法す。四十余年、未だ真実を顕わさず〈ゝゝゝゝゝゝゝゝゝ〉。是〈これ〉の故に衆生、得道差別(障害があり真の悟りの道を体得することができない状態をいう)して、疾〈と〉く(すぐさま)無上菩提(揺ぎない最高位の悟りの境地)を成ずること(実現、成熟すること)を得ず」

 この中の傍点の部分を漢文によって表わすと「未〈レ〉顕〈二〉真実〈一〉」となる。『無量義経』は『法華経』の直前に説いた経文である。したがって「未だ真実を顕わさず」を「この後、真実を顕わす」という意味に受け取って『法華経』こそが、釈尊の説いた教えの中で真実を表わしたものだという考え方が仏教の中にある。 教祖がみずからの境地を「見真実」と呼んだという事実の背後には、こうした仏典に対する素養があったことを無視することはできない

見真実の境地に到達した教祖は、その知りえた真実の内容を身をもって実行し、具現して、広く人々に伝えていった。したがって教祖の言行(言うことと行なうこと)は、そのまま真理を表現するものとなるのである。後年よく、

 「私から目を放すな。ただ一心に私を見つめて、命がけで仕事をやってくれ。」

と言ったが、その厳しい気魄のこもる言葉からは“私が体現する真実を求めよ”という心が、ひしひしと伝わってくる。

 主〈す〉の神は吾に力と智慧賜〈たま〉ひ生きとし生けるものみな救はる

 四十五歳吾見真実となりてより説きし悉〈ことごと〉真理にぞある

 かくて教祖は心機一転し、みずからの運命を神に委〈ゆだ〉ね、全身全霊をもって大いなる聖業に没入すべく、昭和三年(一九二八年)二月四日、節分の日を期して岡田商店の実務から手を引いたのであった。店の経理面は福本金蔵、販売面は長島孝に一任し、みずからは後見役となって、第一線から退いたのである。しかし、その時に商売からまったく手を引いたのではなかった。
その後数年の間は、岡田商店の店主として、店に顔を出したり、双富久会の会合にも引き続き出席をしていた。

 教祖が、見真実という境地に到達したころのこと、後に三代教主となった三女の斎〈いつき〉が大森の屋敷で誕生した。昭和二年(一九二七年)六月四日のことである。