箱根、熱海の両聖地は、共に職人と信者の奉仕隊員によってその造営が遂行された。奉仕隊は全国から馳せ参じた青壮年の男女からなっていた。これらの人々は、それぞれ所属の教会を発つにあたって、教会の代表として出かけるのであるから、参加できない者の分も頑張って来てほしいと激励され、奉仕の機会を許されたこのうえない喜びと意欲に燃えて造営に参加したのであった。男性はその体力に応じて、斜面の切りくずしにあたる者、トロッコで土砂を運ぶ者、植木職を手伝う者などに分かれ、女性は造営の中の軽作業や炊事当番を勤めた。そして雨降りで工事ができない時は、男女共、教祖が揮毫に用いる墨をすることになっていた。
奉仕者の中には、かつて医師に見放され、浄霊によって救われた人々も数多く参加したが、厳しい肉体労働にもよく耐えて、みな無事に勤めあげたのである。奉仕の申し込みは全国から引きも切らず、多くの人々が派遣されてきたが、受け入れにあたっては、どの教会にも片寄ることのないよう、公平に受け付けるように配慮された。
世の中はまだ戦後の混乱が続いていたが、聖地建設に身を捧げ、神の力を身辺に感じながら、志を同じくする者たちと寝起きを共にし、奉仕のできる喜びは何物にも代え難いものであった。とくに、毎日のように視察に来る教祖に親しく会えることが、ただもう有難く、うれしくてどんな苦労も吹き飛んでしまうのであった。
奉仕隊員は、いずれもみな、この地を聖なる神の苑として作業にあたり、懸命の奉仕を続けた。
作業の間、みなが絶えず心に思い続けていたことは、自分たちがこの地上に在るべき社会の理想の型を行なっているという意識であった。したがって天国の雛型建設に携わっているのだから、神仙郷や瑞雲郷での出来事は、良いことも悪いこともそのまま社会に移っていくと自覚していたのである。それはまたみなの信念であり、誇りでもあったのである。こうした使命感は、その仕事ぶりにもそのまま反映した。予定以外に新しい作業が、現場責任者から示されると、たとえ疲れきっている時でも、何がなんでも自分がその仕事をさせていただこうと先を競って集まってくるのであった。当時、奉仕隊の隊員は、聖地に来るにあたって、尽くして求めない、信仰者としてもっとも尊い心情をもって奉仕に訪れた。したがって入用な米や金は自分で整えてきたのである。しかし奉仕隊のもとへは、全国の信者から、米をはじめ沢山の食糧などが寄せられてきた。これらの奉仕品は、どれ一つとってみても、それらは自分たちの代表として奉仕をしてくれているのだからという思いから送られた品々である。奉仕隊員たちは、そうした尊い奉仕品に全国の信者の誠心を感じながら、感謝の心で受け止めていったのであった。
しかし数多く集まった隊員の中には、入信はしているものの、家族でさえ持て余すような人間が、ときには混じっていることもあった。そういう者が聖地の奉仕に派遣されて来るには、それだけの理由があった。それは、周囲の人たちが当人のためを思って全力を尽くしたが、その性根を変えることはできなかった。もうこれ以上は聖地の光で変えてもらう以外にないという、切なる願い、祈りから参加させるようになったものである。
昭和二七年(一九五二年)四月のことである。熱海の奉仕隊の中に、一団の荒くれ者がいた。いずれも人並みはずれた屈強な若者であったが、奉仕しようという気がなく、ほかの人間の仕事ぶりを冷やかしたりして時を過ごし、指揮者の指示には逆らい、揚げ句の果てには、指揮者に対して生意気だと因縁をつける始末であった。
それから間もなく、奉仕隊員の現金や時計などが紛失するということが相次いで起こったのである。その犯人は、結局、例の荒くれ男たちであろうということで意見が一致した。すぐにも白黒をはっきりさせようと、いきりたつ者もあったが、彼らがみずからの非に気付き、その行ないを改めるまで、みなで祈り、見守ろうということになった。
こうして祈り始めてしばらくしたころ、彼らの態度が少しずつ変わり始めた。
「奉仕に来ているのに、おれたちだけ何もしないんじゃ悪いからなあ。」
と言い出し、果てはみなと一緒になって作業に加わるようになったのである。
彼らがひとたび、本気で仕事にかかると、その働きは目覚ましいものであった。人の二倍も三倍もの仕事を片付けていく。そればかりではなかった。彼らが仕事をするようになってから、一度なくなった現金などが、元あった所に戻されているようになった。作業などで不在の時、彼らがこっそり返したのである。
やがて、彼らの奉仕の終わる日がきて、宿舎で慰労会が開かれたその席上でのこと、彼らの中のリーダー格の男が突然立ち上がって、今度の奉仕に来て、みなの姿に接し、自分たちの生き方がまったく誤っていたことに気付いた、これからは心を入れ替えて真面目に暮したいと涙ながらに告白し、奉仕中の無礼を心からわびたのである。これに続いて、その仲間たちも次々と立ち、リーダーの男同様、心から謝罪したのである。この情景に接し、居並ぶ隊員たちも心を打たれ、彼らの改心を祝福し、一同感動にひたったのであった。
このような例ばかりではなく、聖地造営の奉仕を通じて魂の向上が計られ、それぞれに新たな人生を歩み始めた者は数多いのである。しかも、そうした中から、神業一筋にわが身を捧げたいと意欲に燃え、専従を決意していった人々も少なくない。
奉仕に励む信者の、ひたむきな姿に接して、本職の職人も、職業だから作業をするというよりも、これこそは自分たちの天職である、喜んで勤めを果たそうという姿勢で仕事にあたるようになっていった。
また教祖は、彼らを徹底的に信用して始業時間、終業時間などの規則を設けず、また仕事の仕上がり期日もその責任者に任せたため、彼らは自発的な心で作業を進めていった。当初は世間一般の仕事のつもりではいってきた職人も、このような雰囲気の中で日々を過ごすうちに、しだいに積極的な姿勢に変わっていったのである。
教祖はその様子について、
「全員和気あいあいとして労働問題など薬にしたくもないのである。そうして彼等の仕事ぶりを見るとただ良く造る。私の気に入るように造るという意欲で一杯であるから、仕事の出来ばえは世間に見ない程の優秀さを示しているばかりか仕事の都合では夜暗くなるまで電燈をつけながらやっでいるのを私はしばしば見るのである。」
と書いている。
教祖は、かつての実業人としての経験を踏まえ、また神示によって明らかにされた理想世界の実相に鑑みて、聖地造営事業にあたる職人の中に、本来あるべき労使関係の姿を見てとっていた。労働者が誠心誠意働いて経営者をもり立て、経営者も労働者の福利を図って、天国的な雰囲気の中で仕事が進められることにより、能率はあがって、事業は繁栄するという生きた例がそこに実現されていたのである。
箱根、熱海ともに大規模な造成工事の行なわれたのは、戦後間もない、まだ資材も道具も限られた時代であった。したがって前にも触れたように、工事はほとんど人の手によって行なわれたのである。人力を中心に行なわれる大工事には事故がつきものである。しかし神の大きな守護によって、事故というほどの事故もなく、建設は進められた。あわや大事故につながるかと思われた事態も、奇蹟的に回避された。昭和二四年(一九四九年)三月八日発行の『光』紙には、つぎのような事実が報道されている。
「熱海瑞雲台の会館建設工事は全信徒の献身的奉仕によって意外な進捗ぶりを見せているが、数日前ここに偶然ではない不思議な奇蹟が二度も起きた。その一つは切り立ったような山塊を開削するのであるから土砂の崩壊は頻々と発生し、かなり危険が多い。この場合も数名の奉仕隊員が作業中、ごうごうたる砂塵を巻いて大量の土砂が頭上にくずれ落ちてきたのである。瞬間の出来事だったから逃げる暇もない。
全員生き埋めとなったと思ったが、ああ、なんたる奇蹟か、いずれも下半身だけは土に埋まったが、身体は微傷だに負わず、すぐさま駆け付けた同僚によって救出されるや、またも元気に働きだした。
さらに第二にこの現場でトロッコ運搬中、数十尺(十数メートル)の崖下へトロッコが転落、運搬人もあわやその下敷きとなったと思った瞬間、運搬人だけは途中の雑木に引っ掛かって危うく一命を拾ったという。」
これはまた箱根での話である。箱根はとりわけ岩が沢山あり、大きな岩石を移動する作業が多く、それだけ危険が大きかった。
観山亭の屋根を葺いていた、昭和二〇年(一九四五年)の夏のことである。奉仕にきていた一人の青年が、観山亭のまわりの庭造りの手伝いをしている最中に、誤って岩の間に手をはさんでしまった。たちまち鮮血があふれでて、たらたらと流れ落ちた。ちょうどそこへ通りかかった教祖は、その様子を見るなり二間(約三・六メートル)ほど離れた所から浄霊を始めた。するとあれほど出ていた血が、見る見るうちに止まってしまったのである。それはわずか三分ほどの間の出来事であった。教祖はその事実を見届けると、何ごともなかったようにその場を立ち去ったが、まわりの者は感激を通りこして、鳥肌の立つような戦慄にも似た感動に包まれ、茫然としてその後ろ姿を見送ったのであった。