箱根神仙郷の一隅、観山亭の上に、教祖が「鳥の家」と名付けた、藁葺の小さな田舎家があった。かつて日本公園時代の貸し別荘の一つであったのを、面会に来る信者の休憩所として数年の間使っていたものである。しかし、昭和二三年(一九四八年)に日光殿が完成してからは、鳥の家はあまり使われず、そのうえ、老朽もひどくなったので、取りこわすこととなり、ちょうど、神仙郷の近くに建設する手はずになっていた「大成大教会」本部の用材として、役に立つものは、再使用するということになった。それは昭和二五年(一九五〇年)暮のことである。
鳥の家は、建坪約三〇坪(約一〇〇平方メートル)ほどであったが、取りこわしたあとを整地してみると、そのあとにかなり広い平地ができたのである。教祖は、ここに美術館の建設を思い立った。そのいきさつを、後につぎのように記している。
「その跡に百五、六十坪(約五〇〇平方メートル)<*>の空地が出来たので、何か適当なものを建てたいと思っていた処、ふと頭に浮んだのが美術館の建設であった。そうだ美術館には少し狭いが、位置も環境も申分ないので、まず心の中では決めたが、何しろ小さく共仮<ともかり>にも美術館としたら、生易しい金では出来ないし、そうかといってそんな多額の金は当分見込はないから、せめて敷地だけでも造っておけば、いずれは建てられる時期も来るだろうと、まず敷地を作るべく取掛ったのである。それが昨年(昭和二六年)〈*〉夏頃ほぼ出来たので、こうなると美術館を早く建てたいと思う心が、矢も楯も堪らないので、早速阿部〈**〉君に相談した処『それでは早速調べてみましょう』と、調べた処まんざら見込がないでもないという話で、万事は神様が何とかして下さるに違いないと思い、取敢ず準傭に掛ったのがその年の十月であった。」
* ( )内は編集者・挿入
**箱根美術館建設当時の執事
教祖の構想によれば、美術館は三階建て、総建坪二六六・五坪(約八八〇平方メートル)白壁に青瓦〉の瀟洒〈しようしゃ〉な中国風の建物で、一、二階各三室、合計六室の展示室があり、三階は一五畳と六畳の二間の日本間が造られることになった。この建築、設備すべてが教祖自身の設計によるものであった。
建設は、一〇月の着工以来、目覚ましい早さで工事が進捗し、一一月の中ごろには基礎と骨組の工事を終わり、一二月には早くも各階の床のコンクリート打ちが行なわれた。
二階フロアのコンクリート打ちの時には、二四時間ぶっ通しの徹夜作業が行なわれた。全国から馳せ参じた信者の中から、屈強の男性が選ばれて作業にあたったが、常識では不可能な作業も、信仰の力ゆえになし遂げられ、仕事をした本人がその成果に驚くということの連続であった。
美術館の外郭が完成して内装に着手したのは、明くる二七年(一九五二年)三月初めのころである。
例年の通り教祖は秋から、熱海に移った。しかし月に数回は車を走らせ、十国峠を越えて神仙郷に行き、工事状況を視察したのである。教祖の足取りはきわめて軽やかで、ときおり足を止めては、細部にいたるまで綿密な指示を与えた。たとえば、展示室の出入口を作る時のこと、
「設計図のままでは広すぎるから、狭くしてはどうか。」
とのことなので、さっそく、原寸大の木枠が作られた。教祖は実際の場所に木枠を置かせ、みずから出たりはいったりしたうえで、その寸法を決めた。
また屋根にしても同様に、線の反り具合や瓦の色の選定に神経を使った。とくに瓦は、あちこちのものを見て気に入った色を決め、特別に注文して焼かせたのであった。
来賓室とされた三階の和室はもっとも細心の注意を払った。たとえば大文字山に面する東側の戸にしても、硝子戸だけでは落ち着かないからと、雨戸との間に障子をはさみ、和らいだ雰囲気になるように工夫した。その障子にしても何度も模型を作らせ、桟の太さや間隔を見、部屋全体に調和するように検討を重ねた。また、桐の格天井や金銀の市松模様の襖を配し、東側には小さい竹の植込みをしつらえ、その竹の葉越しに大文字山が眺められるように造るなど、細やかな神経が隅々にまで行き届いている。さらに欄間に彫られた雲形の文様は、教祖みずから下図を描いたものである。これはめでたい瑞雲象徴した図であり、後に熱海・救世会館の椴帳<どうちょう>の図柄に用いられたものである。
教祖の熱心な現場視察は、工事の進捗に拍車をかけた。そのうえ、来観者のために心細かに徹底した配慮をする、その姿を通して、奉仕者たちは一様に、神業にかける誠心の在り方を学ぶとともに、信仰の覚醒を経験したのである。
教祖が建設現場を歩いて行くにつれて、奉仕者は働く手を休め、口ぐちに挨拶をする。それに対して教祖は、かぶっていた帽子をちょっとつまみ、軽く会釈を返す。ときには信者の心の緊張を解きほぐし、温かく包み込むように、
「どこから来たんですか。」
「いつまでいるんですか。」
と聞く。それは何のてらいも構えもない、淡々とした言葉である。けれども奉仕する信者は、緊張のあまり全身に汗する思いで、答えもしどろもどろになりがちであった。しかし夢中で答えたそのあとから、教祖の大きな愛情を感じ、感動に満たされるのであった。
昭和二六年(一九五一年)、G・H・Qから出された建築の統制命令によって大きな建造物の建築制限が発表された時には、必死の作業が行なわれた。というのは一定の期日までに天井のできあがった建物に限って、制限の対象から外されたからである。そこで期日に間に合わせるために、一一月から一二月にかけて、何度か徹夜のコンクリート打ちが行なわれたのである。
昼間だけでも厳しい重労働であるのに、夜間も続けるとなれば、その負担は大変なものであった。しかし、男性ばかりでなく、ふだんは炊事の作業にあたっていた女性奉仕者までが、みずから名乗り出て、砂利や砂を運び、夜通しコンクリート作りに加わった。こうした奉仕の誠心に神も応えたのであろう。山の冬の夜の、とくに晴れわたった日はひときわ寒さが厳しい。しかし作業の夜になると不思議に雲がかかって暖かくなるのであった。こうした神の守護を肌に感じ、一つ一つ神業が進展していく喜びをかみしめつつ、作業にあたったのである。
昭和二七年(一九五二年)五月、教祖が熱海から箱根に住まいを移すころには、美術館は九分通りできあがり、早雲山を背にして、燃えるような新緑にはえる、瀟洒〈しようしや〉な姿を鮮やかに浮き立たせていた。
教祖は毎日、美術館に行き、散らばった鉋屑〈かんなくず〉も厭わず、隅々まで念入りに見て歩いた。そして美術館建設が始まったころから面会時の教祖の話は、しだいに美術に関する話題が多くなった。箱根美術館は日本の美術を世界に紹介するための美の殿堂であり、完成の暁には海外にも知られるようになって、多くの外国人が来館するであろう・・といったことなどが説かれたのである。
日本美術の名品が数多く海外へ流出するのを政府でさえ、手を打つことができず、傍観せざるを得なかった時代に、先んじて、日本の伝統芸術を守り、優れた芸術を大衆に開放して広く内外に日本文化の真価を知らしめようとした教祖の雄大な構想は、それまで、とかく美術に関心の薄かった信者の心の眼を開き、強く鼓舞したのである。
教祖は美術館のもつ神業上の意味について、
「やはり美術館も御神業の一つの型になっているわけです。」
「美術館というのは天国のシンボルです。」
と述べている。箱根美術館が完成することによって、神仙郷地上天国の雛型が完成し、やがてこれは、世界的な天国建設の歩みとなって具体化されていくと説いたのである。こうした教祖の話を聞くたびに、信者の胸中には至高の神業に参画を許されているのだという自覚が高まり、誇りと喜びが沸々とわいてくるのであった。
この箱根美術館建設のため、とくに貢献のあった信者に対して、与え、その功に報いている。これは全部で三〇枚余り、茶掛け風の、教祖は特別の書を揮毫して経書き一行の書であった。
普通、教祖は一瀉千里〈いつしゃせんり〉に、大変な速さで揮毫したが、この時は、一枚一枚異なる文字を選び、時間をかけて書いたのである。(下巻、一頁と四九一頁掲載の書は、その時のものである)