株式会社・岡田商店の新しい門出は容易なものではなかった。大正九年(一九二〇年)三月、ァメリカに端を発した恐慌が世界中を襲い、日本においても株価は暴落し、物価も急落して経済界は大混乱に陥ったからである。企業の倒産が相次ぎ、失業者がふえ、銀行の取付(預金者が預金を引き出しに銀行に殺到する)騒ぎが起こった。教祖は、
「翌三月十五日彼の有名なパニック襲来が始った。株は大ガラとなり、商品は一挙何分の一に下落したのだから、生れたばかりの株式会社岡田商店は一たまりもなく転落、二ッチも三ッチもゆかない事になった。」と記している。
しかし教祖は、ふたたび勇気を奮い起こして会社の建直しに尽力した。差押えに続く恐慌という二度の打撃は、岡田商店の屋台骨を揺るがせはしたが、店員あげての努力によって、しだいに明るさが見えてきたのであった。教祖は、
「それでもなにくそと社運挽回に大努力をし、十年、十一年、十二年頃は漸く瘡痍〈そうい〉も癒えかかり‥‥‥。」
と書いている。大正九年(一九二〇年)五月末日の金銭出納帳には、一か月の細々した出費が集計され、そのかたわらに「節約可能」(一八六頁参照)という四文字が書き添えられている。当時の逼迫した経済状態がうかがわれる記載である。
教祖は出費を切り詰めるとともに、一方で売り上げ拡大の努力を始めた。旭ダイヤの発明後、ひとしきり途絶えていた実用新案の申請を矢継ぎ早に出し始めたのは、このころである。吉川の事件が明るみに出る直前の大正八年(一九一九年)の四月に、教祖は旭ダイヤに続く新しい試みを完成させ、実用新案の申請をした。「絵画式」という名を冠したものがそれである。布や紙などを漆のような接着剤を使って櫛の嶺に貼り、そこへ絵を描くもので、八年(一九一九年)の四月に「絵画式櫛」、同年七月に同じ方法による「絵画式ピン」の実用新案を申請している。さらに大正一一年(一九二二年)二月には、金属板に孔をあけて宝石を付けた「宝石入髪止具」を創案、実用新案を申請している。
商売の決め手は商品であるということを信条とした教祖が、社運挽回のために新製品の開発に努めた足跡が、実用新案の書類からもよくうかがわれるのである。
教祖は大正一二年(一九二三年)五月、七年にわたって住みなれた大鋸町の自宅を売却し、東京府荏原郡入新井町に屋敷を買った。ここは現在、国電大森駅から西へ歩いて二〇〇メートルほどの所で大田区山王町二丁目と表示が変わっているが、一般に八景園あるいは八景坂と呼ばれていた。後に松風荘と名付けられたのがこの家である。
大森への移転にはさまざまの意図があったが、事業面からみれば大鋸町の売却によって、運転資金を得ようとしたと考えられる。大森の屋敷は、土地は他人のものであり大鋸町の家を土地ごと売った代金との間には、大きな差があったからである。
こうした教祖の努力に、またしても大打撃を与えたのは、大正一二年(一九二三年)九月一日午前一一時五八分、突如、関東、東海地方を襲った大地震であった。続けざまに二度、激しく大揺れがあり、しばらく間をおいてもう一度大きな震動があった。文明開化の象徴とうたわれ、浅草繁栄のシンボルとされていた総煉瓦造りの浅草・凌雲閣(一二階)が八階あたりから折れたのも、この地震の時のことであった。
岡田商店は危うく倒壊を免れ、そのうえ、男手が多かったので、落ちた壁土を片付け、荷くずれした品物などもたちまち整理がついて、店員たちは、銀座などの得意先へ手伝いに行った。しかし、地震そのものの被害は、関東大地震の災害のごく一部にすぎなかった。猛威を振るって壊滅的な打撃を与えたのは、地震を引き金に起こった大火災であった。
地震と同時に下町に起こった火事は、しずまるどころか、夕方にはいってしだいに西進した。両国の被服廠(両国駅に近い場所。現在、震災記念堂が建てられている)で三万八〇〇〇人の焼死者を出したのをはじめとして、多くの家を焼き、おびただしい人命を奪い、さらに京橋、芝へと延焼し、ほぼ皇居を包囲する形でようやく鎮火したのである。それは焼死者五万数千人、焼失家屋四十余万戸という大火災であった。(被害実数は、平凡社『世界大百科事典』より引用)
火勢のために起こる突風に乗って、神田方面の火の手が、岡田商店のあった東京駅南側一帯に迫ったのは、もう深夜にはいってからであった。万が一に備えて店に待機していた店員たちは、製品を箱に入れ、庭に積んだり、八重洲の外堀の水の中へ沈めたりして火災に備えた。しかし、いよいよ炎が近づくのを見て銀座方面へ逃れ、現在の有楽町駅の手前にあった鍛冶橋を渡って鉄道の操車場へ逃げた。その時刻には、すでに本所、深川、浅草など下町から焼け出されてきた人々が避難してきて、操車場や皇居前広場は人の波で埋め尽くされていた。
店員たちは止めてある汽車の中で二晩を過ごした。荷物と一緒にお鉢で御飯を運んでいったので、明くる日はそれを食べ、焼け出された日から数えて三日目、荷車を手に入れて堀に沈めた商品を引き上げ、自分たちの身のまわりのものを一緒に積んで大森八景園の教祖の屋敷まで運んで行った。
手形で渡した品物も灰になり、取引先に倒産するところも多く、回復の兆しの見えた岡田商店は、またしても大きな痛手を受けたのである。
しかし、踏みつけてもすぐ起き上がる野の草のように、何週間もしないうちに関東地方一帯の経済活動は力強く再開された。
装飾品も季節の商品であり、問屋ではそれぞれの季節に先駆けて小売店へ品物を納める。岡田商店の場合、卸だけでなく製造も手がけているので、もう春から夏のうちに冬物を作って納めてしまう。したがって、震災に先立つ八月、すでに大阪や京都の取引先の大きな問屋へ、冬物が大量に納めてあった。東京は全滅に近かったが、京都、大阪は東京の働きを補うこととなり、好景気に恵まれ、一〇月に代金が回収できたのである。
震災後、北槇町に店が再建されるまでしばらくの間というもの、大森の屋敷が店の代わりをつとめることになった。職人はできあがった品物を持ってきて見てもらう。店員たちは、住み込みの者ばかりでなく、焼け出された通いの者も、みなそこへ身を寄せたからである。
長島は後に岡田商店を継いだ福本金蔵らと共に、できあがった商品を鞄に入れ、得意先を固って売り歩いた。震災の後、なお倒産する店などが多く、依然としてお互いの信用が不安定であるので、取り引きは手形や小切手を使わず、いっさい現金で行なわれた。朝、品物を入れて出た鞄の底に、帰りには多額の現金がはいっている。夜、大森に帰ってからそれを計算し、終わって銭湯へ行くころは、もう夜中の一二時を回っているという日が続いたが、こうして得られた現金収入は、経済的な打撃を受けた岡田商店には貴重な財源となったのである。
関東大震災を境に、岡田商店の店員に大きな異動があった。第一に明治四〇年(一九〇七年)以来、一六年にわたって教祖の片腕をつとめてきた木村が独立したことである。全幅の信頼を置かれ、親戚以上の間柄として苦楽を共にしてきた木村にとって教祖と袂を分かつのは、本意ではなかったに違いない。しかし、おそらくこれは、商売の縮小を余儀なくされた教祖の方から独立を勧め、話し合ったうえでの結論であろう。木村と共に販売部長の森も独立し、岡田商店の黄金時代は名実ともに終わりを告げたのであった。