文章を書く心構えについて、教祖は大要つぎのように書いている。
「およそ、文章というものは、書く人の想念が文字を通して、読む人の想念に反映するものである。したがって、私が神意のままに書いた文章は、霊的には、読む人に神の光を取り次ぐことと同じであって、いわば、活字を通して目から浄霊を受けるともいえる。したがって、読めば読むほど、信仰が深くなり、魂が磨かれる、信仰が徹底すればするほど、むさぼるように読みたくなるものである。それゆえに、繰り返し繰り返し肚にはいるまで読むのがよい。」
このように説いた教祖が、みずから口述し、推敲を重ねた原稿を「神の書」として大切に取り扱ったことは、すでに記した通りである。大切に取り扱うだけではなく、「神の書」を徹底して熟読すること、またそこに盛られた教えを実践することが、大事な信仰の基本行であるとして、おりに触れては信者に話して聞かせ、信仰生活の要諦として注意を喚起したのであった。当然のことながら、側近の奉仕者には、より一層厳しく求めるものがあった。奉仕者が何か失敗をした時、教祖はすぐ当人を呼んで言った。
「おまえは教えを読んでいるか? 私の言っていること、していることはみな、本に書いてある。こんな失敗をするようではまだ読み方が足らない。毎日、少なくも三〇分は心を込めて読みなさい。」
教祖の生活はいつも、神にピントを合わせ、一分の隙もなく神業を進める毎日であった。すると奉仕する者は、教祖にピントを合わせ、必要な心配りをしなければならない。どのようにピントを合わせればよいか、どのように心配りをしたらよいかということは、平常教えをよく読んでいれば、おのずからわかってくるから、失敗など仕出かすはずはないというのである。
『信仰雉話』が出版されてから間もないころ、教祖はある弟子に尋ねた。
「あんたは『信仰雑話』を読んでいるか?」
「はい、読ませていただいております。」
「そうかな、ほんとうに読んでいるか?」
「何回も読ませていただいております。」
「あんたは身体のどこで読んでるんだ?」
「目で読んでおります。」(急に聞かれて本人はまごついてこう答えたのであった)
「それは頭で読んでるということだな?」
「はい、そうです。」
「頭で読んでは駄目だ。肚でむさぼるように読め。あんたの態度を見ると、本当に読んでいるとは思えない。全身からにじみ出てくるものがない。教えは行なうために読むので、読むために読むのではない。」
と諭したことがあった。
「行なうためにこそ、教えを読め。」と諭した教祖は、信者に説くことを、みずから日々必ず実践していたのであった。
たとえば、時間を守らないのは誠心がないからであるとして、時間厳守を命じた。そういう教祖は、起床から就寝<しゆうしん>まで自分自身で決めた時間割り通りに毎日を送ったのである。後に三代教主を継承<けいしよう>した娘の斎<いつき>が、ある時、
「お父<とう>様、たまにはお眠い暗もおありになるでしょうに、感心ですね。いつも凡帳面<きちようめん>にお起きになって……。」
と言った。すると教祖は、
「そりゃあ、私だって眠い時もあるさ。だけどね、私がそういうふうに時間なら時間を励行しなくては、信者に対して私は言えない。だから信者に言ううえにおいては、やはり自分はそれだけのことをしなければいけない。」
と答えたのであった。
教祖は、プラグマチズムの哲学を、哲学行為主義として受け止め、これを宗教の世界にとり入れて、
「宗教と実生活と密接不離な関係にまで溶け込ませようとするのである。」
と書いている。このように教祖は、教えを説くにあたって、終始、実践してこそ価値があるという信念に立って執筆し、また人々にも語ったのであった。
昭和二七年(一九五二年)、教祖はまた、側近奉仕者にしばしばつぎのように命じている。
「うちの者は、私の日常生活を書いて信者に知らせる義務がある。私がいつも信者に言っていることを、私自身が守り、実行しているかどうか、おまえたちの目で確かめ、ありのままを書いて機関紙に載せなさい。」
「ありのまま書かれては具合がわるい。」というのが、大方<おおかた>の人々の姿であろう。とすれば、「ありのままに書け。」などということは、簡単に口にできるものではない。これは教祖が平常いかに厳しくみずからを律<りつ>していたか、またいかに表裏<ひようり>のない、言行一致<げんこういつち>の生活を送っていたかを示す言葉であるといえる。
昭和二五年(一九五〇年)の法難後、教祖は、みずから書いた論文の重要性を強く説いた。
そのころ川合輝明は、教えの体系化の問題について、自分の考えを教祖に述べ、指導を求めたことがある。その時教祖は川合に向かって、
「聖書だって、弟子が書いたんだ。そういうことは、君たちのやることだ。私は時に応じて説く。それをまとめるのは君たちだ。それをいちいち私に聞くことはない。」
と言い、さらに言葉を継いで、
「これからの若い者は、教えがしっかりはいっていなければならない。教えを通して思想性を身に付けておかないと、いい仕事はできない。」
と、みずからの論文にかける願いを吐露したのであった。
この年の二月、教祖は「大いに神書を読むべし」という論文を『栄光』紙八〇号に掲載し、その中で信仰を深め、人を救う力をますには、論文を読まなければならないと述べている。教祖の言葉を受け、また、こうした論文にも接して、川合は、それまでにもまして、教祖の論文の大切さを身にしみて感じ、教祖の教えを編纂<へんさん>するという使命の大きさを痛感したのであった。こうして川合は、教祖の代表的な論文を収録してまとめ、教祖に報告した。そして、その許可のもとに、昭和二九年(一九五四年)三月、『御神書・宗教篇』と題して出版することができたのである。