家庭生活

 教祖は困難な時代の中にあって、その時その時に可能な最良の道を求めつつ神業を進めていったが、同時にまた、一家の家長として家族への心配りを忘れることはなかった。

 子供たちに対しても、教祖みずから実行していることを教えるのを旨とした。しかし、家庭教育の根本は子供の自発性を重んずるところにあるという考えから、かりそめにも親の権威をかさに着て、無理やりに押えつけるようなことはけっしてなかった。子供には子供の気持ちがあるのだからと、その意志を尊重<そんちよう>し、細かなことをうるさく言うことはしなかった。じつと子供たちを見守って、ひとたび筋<すじ>の通らないことがあれば、それを見逃すことはなく、きわめて厳格な態度で、教え導いたのである。
 たとえば、朝晩教祖に顔を合わせながら、何も言わずにいると、

   「なぜ挨拶をしないのか。」

と厳しく叱った。

 したがって、自由に育てたといっても、けっして放任しておいたわけではない。多くの人を救い導く激務のために世間一般の父親のように子供に接することはできなかったが、子供の将来には常に気を配り、教育にも熱心であった。

 次男・三穂麿の在学した多摩帝国美術学校(後の多摩美術大学)へも夫婦で何度か足を運び、その勉強ぶりを見に行ったし、自身絵を描く立場から、さまざまな助言を与えている。それは、しばしば厳しい批評となることが多かったが、表現された絵そのものよりも描くにあたっての心構えを重んずるようにさとしたのであった。

 かといって、絵を描く技術をないがしろにするようなことはけっしてさせなかった。ある日のこと三穂麿が、
 「模写は嫌いだ。」
と言ったことを聞きとがめて、
 「模写はした方が良い、模写をして自分の腕が固まってから新しくやりなさい。」
と言った。

 三穂麿はどうも人真似をするような気がして、長いこと自分の考えを譲らずにいたが、時がたつにつれ、修業の途上にあっては模写がきわめて大切な勉強であるとわかった。こうして、教祖の言葉が正しかったことを覚り、画家として独り立ちする力を身に付けたのであった。

 昭和一六年(一九四一年)の春、教祖は小学校訓導(旧制の小学校の正式の教員、現在の教諭に相当する)の大和信行に子供たちの家庭教師を依頼した。大和は昭和一四年(一九三九年)の暮れごろからときおり宝山荘へ出入りしていたが、たまたま近くの玉川小学校へ転任になったのが一六年(一九四一年)の春であった。その時から約一か年、家庭教師を続けたのである。

 教祖は毎月二一日になると、「薄謝」と書いた半紙に月謝を包んで手ずから大和に手渡すのを習わしにしていた。そして子供たちが勉強している様子を時々見にきたり、ときには、よ志を中心に大和や子供たちが歓談している中にはいって、ひとしきり話相手になることもあったのである。

 長女の通子を筆頭に、三男三女の六人の子供たちにとって一番楽しみにしていたのは日曜日であった。というのは、日曜日になると小遣いがもらえるからである。子供たちがそろったところで、教祖は懐中からガマ口を取り出し、上の男の子には二〇銭、女の子には一五銭、下の子には五銭という具合に、上から年齢順に金額の差をつけて与える決まりであった。その時の懐具合に応じて金高はふえたり減ったりしたが、ほんとうに困窮した時期には、小遣いをもらいに子供たちが来ると、
 「ウェッ!」
とつらそうに顔をしかめたこともあったという。そのころは、玩具も買ってもらえなかったの
で、子供たちは凧や、果ては天体望遠鏡まで、いろいろ自分たちで工夫し、作って遊んだのであった。

 やがて経済にゆとりができるようになると、家族そろって銀座あたりへ行き、楽しく食事をしたこともあった。子供たちの一人は、父親としての教祖をつぎのように回想している。
 「厳しい一面、非常に温かい父でした。宝山荘のころ、食後は父と母と私たちとみんなそろって、いつも大層賑やかなものでした。

 たとえば、ラジオから音楽が流れてくると、父はそれに合わせて、ユーモアたっぷりに拍子をとります。そしてしまいには、〝見よ、東海の空あけて、旭旦高く輝けば……〟<*>と、そのメロディーを口ずさみながら、まず手を打って、お茶入れのカンの上をたたき、それからそのカンを逆さにして底をたたき、またカンを下ろし、横からつかんでひっくり返し、上をたたいて元どおりにする。というような手順で、じつに上手におもしろおかしく見せてくれました。これにはみんな大笑いです。」

  *当時流行した〝愛国行進曲〟の一節

 また、よ志に対する教祖の細やかな心づかいは、今日から見ても垢抜けした、新しい時代を先取りしたものであった。それは、外出のおりに、いつもよ志を連れて出かけるということからもその一面がうかがわれるのである。

 よ志はその思い出を、
 「当時は、二人で出歩くということは大変新しく、人の目に付き、私も少しきまりが悪いように思いましたが、明主様は平気でした。ここらも非常に新しい方だったと言えましょう。」
と述べているが、これは単なる新しがり屋でなく、生来、気取ることを好まなかった教祖が自然に振舞った結果であったといえよう。

 教祖はまた何をするにも必ずよ志に相談し、その気持ちや意見を尊ぶのを常とした。

 よ志は非常に記憶力が良く、鋭い感性に加えて、優れた美意識を持ち合わせていたから、ときに美術のことや生活上のことで自分の意見をはっきり主張して譲らず、火花の散ることがあり、かたわらにいる者がハラハラすることもあった。けれどもそうしたおり、急によ志が、
 「ねえ、先生。」
と、今までの火花もどこへやら、楽しい話題を持ち出し、なごやかな雰囲気に変えてしまうのである。すると教祖も、なんの屈託もなくそれに答え、先ほどまでの厳しいやりとりは、もうまったくどこかへ忘れてしまったようになる。その息の合った転換の早さはじつにみごとなものであった。

 宝山荘時代、教祖はどのような苦難に遭遇した時でもけっして明るさを失うことはなく、未来への希望を持ち続けた。官憲によるたび重なる圧迫から、志なかばにして活動の道を閉ざされた時でさえ、花咲き、風薫る宝山荘で、心静かに書画の揮毫に時を過ごした。また、奇麗な水をたたえて流れる多摩川べりをよ志と共にしばしば散歩するなど、その暮しぶりはあくまでも悠々たるものであった。

 美術館建設の構想を初めて物語ったのも、そのようなおりのことである。ある日のこと、散歩しながら教祖はよ志を振り返って、
 「今に美術館を造るから見ていなさい。」
と言った。よ志は、
 「それはいいですねえ。」
と口では賛成したものの、仮にも美術館といえば、個人の蒐集ぐらいではとうてい及びもつかないものなので、内心本気にすることはできなかった。むしろ、雲をつかむような話で、馬鹿馬鹿しくさえ思ったという。しかし、それから十余年、その雲をつかむような話は、まさに現実となって現われるのである。

 教祖は後年、つぎのように書いている。

 「私は若い頃から人を喜ばせる事が好きで、ほとんど道楽のようになっている。私は常にいかにしたらみんなが幸福になるかということを思っている。これについてこういうことがある。私は朝起きると先ず家族の者の御機嫌はどうかということに関心をもつので、一人でも御機嫌が悪いと私も気持が悪い。」

 このことは、順風に乗った時期ばかりではなく、逆境の中にあってもなんら変わることがなかった。

 よ志は後年、
 「まったく明るい未来にばかり面を向けておられる明主様には、暗いところは毛筋ほどもありませんでした。そのくせ現実的には悩み苦しみがないわけでもないのに、いやなことは一口も触れられなかったことは、まったく天国人だったと思います。とかく愚痴が出たり、苦労の一つも言いたいのが凡人の常ですが、明主様はまったく違っておられました。
 この点、われわれは見習わねばならないと思います。」
と話している。