仮の姿の救済活動

 昭和一五年(一九四〇年)、第二次・玉川事件の後、それまで教祖が直接手を下していた講習やお守りの取り次ぎを許された弟子たちは、中島、渋井、木原、坂井、荒屋など数名の幹部であった。坂井は東京で、木原は九州で、荒屋は岩手県一関で布教を続けたが、中でも中島、渋井の導きは全国にわたり、その中から、教団の発展に寄与する多くの人材が輩出した。

 これらの弟子たちは月に三度、それぞれ決められた日に教祖のもとへ行き、日ごろの礼や報告とともに、今後の指針、指導を受けたのである。教祖揮毫の観音画像や書体、お守りは、これらの弟子たちの働きを通じて日本全国はおろか、当時日本の領土であった朝鮮や台湾、満州(現在の「中華人民共和国」東北部)、さらにまた中国へと伝えられ、人々を救ったのである。

 もちろん、宗教の形はいっさいとらず、療術行為という名目であったから、弟子たちはそれぞれ当局に届け出をし、「中島式指圧療法治療院」、「渋井式指圧療法治療院」というように、みずからの名のもとに、療術師という仮の姿で活動したのであった。

 このことに関して大変興味深い話が伝えられている。小川栄太郎(後の「光陽教会」会長)が、昭和一九年(一九四四年)、東京の蒲田に指圧療法の看板を出していた坂井をたずねた。小川はそれまで、鍼灸の資格をもつ治療師として東京で開業していたので、この指圧療法が大変よく治るという噂を聞き込み、興味をもって出かけて行った。見ると、坐って浄霊をしている坂井の背後には観音像が掛かっており、坂井は和服で袴をはいていた。小川は、
 「どうして手から神秘光線が出るのですか。」
と質問をしたが、 
 「今は言えない。深い意味がある。まずやってみなければ駄目だ。やってみればわかるから。」
の一点張りであった。一週間通ったが、どう考えても宗教としか思われないので尋ねると、
 「これは宗教じゃない。」
という、きっぱりした返事であった。そこで、
 「ここにお観音様が掛けてあるのはどういうわけですか。」
と問うと、
 「私たちは、毎日いろんな人に接するが、治療の時には場合によって上半身裸になってもらう。当然女の人の肌にも触れる。人間というものはどうしてもいろいろな邪<よこしま>な心を起こすものだから、そういう心が起きないように観音様を掛けている。」
という。また白髪の男性の肖像写真が掲げてあるので、聞くと、
 「私の先生だ。私はこの大先生のお蔭でこういうことができる。大先生がいつも私のそばにおられるような気持ちで掛けているし、朝晩ご挨拶する。信仰とはなんら関係ない。」
とまたしても明確な答が返ってきた。

 小川は、すべての説明に納得がいったわけではなかったが、坂井の自信に満ちた態度や、苦しむ人々が実際に救われていく姿を見るにつけ、それまで求めて得られなかった力を見出したと実感した。そこで坂井から講習を受け、お守りをもらうと新潟へ帰り、さっそく浄霊を始めたのである。

 そして、初めて浄霊したわが子の病気が不思議にも良くなったことから、当時ひそかに信者の間で読み続けられていた『明日の医術』などの本をむさぼるように読み、改めて教祖の説く根本教理に魂を揺り動かされて、布教を始めたのである。

 このような事実の中に、戦時体制という厳しい制約の中で、やむなく、譲るところは譲りながらも、核心は固く守って、粘り強く実行に移していった当時の布教の姿を読み取ることができる。宗教的な言葉を口にすることはできるだけ控え、浄霊という神の力を媒介として、心から心へ、魂から魂へ、教えが伝えられていったのである。

 昭和一八年(一九四三年)ごろから、各地の布教は軌道に乗り始め、名古屋においても渋井を迎え、初の「出張講習会」が開かれるようになった。このような全国的な発展は、一に浄霊の力が人から人へ急速に伝えられたからである。戦時下のこととて疎開をして、それぞれの地方に分かれ住んだ弟子たちが現地で活発な布教活動を開始したことがそれに大きくあずかっている。戦後、急速に大発展を遂げた教団の礎は、このような形で着々と築かれていたのである。

 しかし、こうした発展の陰には、弟子たちの筆舌に尽くしがたい苦難があった。というのも、細心な心配りをしたにもかかわらず、弟子たちは常に警察によって留置される危険にさらされていたからである。当局は民間治療の形で神業を続ける弟子たちに対し、けっして公認しているのではないということを示そうとするのか、いろいろ口実を作っては警察署に留置することを繰り返したのである。

 講習会や浄霊の現場には、刑事が立ち会うこともあり、講義を担当する者が、信仰の情熱を押えきれず、思わず宗教的な内容に触れたりすると、すかさず、
 「弁士、注意!」
と威嚇され、警告された。

 刃の上に身を置くこのような情勢の中にありながら、しかし、断固として神業の営みは続けられた。教祖のためには死をも辞さない不退転の決意に燃えた弟子たちの、文字通り命がけの信仰によって、教祖の救世済民の悲願は、大きく展開していくことになるのである。