教祖が玉川から箱根、熱海へ移転してからも、官憲の目は執拗にその動向を追い続けた。戦争が終結し特高警察や憲兵などの監視体制が崩壊するまで、教祖 要注意人物、危険分子として扱われたのである。教祖が東山荘を入手すると、その情報はすぐ東京から熱海の当局へ通報され、秋になって教祖が箱根から熱海へ移ると、一人の私服の憲兵がときおり東山荘に出入りしては内偵を始めた。教祖はこの憲兵が自宅を出ると、すぐそれがわかり、揮毫中など筆がひとりでに止まったという。しかし、教祖は憲兵を前にしても、いつに変わらぬ淡々とした応対の仕方であった。
内偵には私服の憲兵ばかりでなく、熱海警察署の警官も加わっていた。当時は軍も警察も共に思想統制に関与していたのである。しかし、教祖はいやな顔ひとつ見せず、珍しい茶菓子などを出してにこやかに応対をした。相手が内偵に来ている人間であるにもかかわらず、警戒のそぶりはまったく見せず、面会の席へ呼んで、信者と一緒に話を聞かせたり、自筆の観音画像を贈ったり、また、浄霊もしたのであった。
こうした分け隔てのない応対ぶりは、一つには内情を隠したりせず、なんでも自分の目で見、耳で聞いて確認してもらおうという意図によるものであったろう。しかし、それは以前から、どんな人間にでも同じ心で接した教祖の、大いなる愛の発露であったともいえる。憲兵も警官も教祖のもとへ足を運ぶうちに、教祖の人格に包み込まれ、しだいに好感をいだくようになった。好感はやがて尊敬、畏敬の念へと高められていったのである。
このように一方では、大らかに官憲を包み込んだ教祖であったが、その一方でまた、いたずらに刺激することは極力避けるという心配りを忘れることはなかった。面会に来る信者は、表門のほかに内玄関や台所など数か所から別れてはいったりした。屋敷のまわりには毎日のように物陰に五、六人の特高が潜んで常に目を光らせていたからである。「特高がうるさいから来なくてもいいよ。」と教祖から言われた人もあった。
熱海に移って間もないころのこと、刑事がたずねてきて、教祖の家にあった二、三台のラジオを電気屋に運び、綿密に調べさせたことがあった。それはアメリカと通信しているのではないかという疑いからであった。そればかりでなく、また、ときには東山荘の向かいの家に刑事が張り込んで、出入りする信者について細かな記録を取ったこともあったのである。
またある時、特高課の刑事が釆て、
「君の方で病気が治るのは、観音様が治すのではない。天皇陛下の御稜威(威光)で治るのだから、治った場合、天皇陛下にお礼を言うのが本当だ。」
と言う。すべてを天皇の権威に結び付ける官憲の常套手段には慣れっこの教祖は、
「病気の治った人は、二重橋へお礼に行かなければならないね。」
とちょっとした皮肉で答える一幕もあった。
こうした執拗な捜査にもかかわらず、教祖の身辺からは、いっこうに罪状とすべきものが見出されない。いささか根負けをした刑事は、
「岡田のやつを挙げようとして随分調べたが、なんにも材料がないので困ってしまう。」
と嘆いたという。ところが、この言葉が、回り回って当の教祖の耳に届いた。これについて教祖は、
「私は笑はずにはおれなかった。何故なれば、材料があるから挙げるので、何にもなければ良民である。それを困ったといふのは故意に犯罪者にしようとするからである。実に解するに苦しむ。」
と書いている。
箱根、熱海に移ってからも、教祖は暇を見ては家族や側近の奉仕者を連れて、よく散歩をしている。とくに終戦までの一年余りは、箱根であれば、あちらの峰、こちらの山裾と歩き回り、その都度<、道すがら愛らしい野の草花を摘んできては、床の間に生けたのであった。 教祖は、きわめてざっくばらんな服装でいることが多かった。したがって、箱根の山の散歩はもちろん、人通りの多い、繁華な熱海の温泉街であっても、着流しで歩くのが普通であった。 それはどう見ても、どこにでもいる平凡な老人という様子である。しかし別に改まった構えを作らないその姿は、教祖をよく知る者の目には、かえって親しみとともに人柄の大きさを感じさせずにはおかなかったのである。