昭和二九年(一九五四年)四月一四日、教祖は七回目の関西巡教を終えて熱海へ帰ったが、その翌日から一七日までの三日間、長旅の疲れも見せず、咲見町仮本部において信者との面会を続けた。おりしも、関西巡教出発の前日の四月九日から日本橋の三越本店において開催されていた「肉筆浮世絵・名作展」が一八日に終了し、一四万三五〇〇人の入場者を数える大成功を収めたという報告を受け、教祖は大変に喜んだ。
明けて四月一九日の午後二時ごろ、誰一人として予想もしなかった大事が起こった。蒐集した美術品を整理していた教祖は、突然脳溢血の症状を起こして倒れたのである。容態は軽いとはいえず、五日目になって、ようやく床の上に起きることができる状態であった。
教祖はそれまで午前七時四五分の起床から、深夜の午前二暗まで、それこそ分刻みで神業を続けてきたが、この重大な浄化を境にして、機関紙への執筆、揮毫、信者との面会など、表立った神務はすべて取りやめ、静養に努めた。
しかし、静養中の教祖にとって、一番心にかかったのは、全国の信者のことであった。浄化以前は毎旬五、六、七日の日、したがって毎月九日間は面会を行なっていたが、それができなくなったので、教祖はさっそく信者に伝達する言葉を録音させたのである。そのメッセージの中で教祖は、今回の浄化は神によって定められたものであり、神業上重要な意義をもつものであるから、信者は心安らかに信仰に徹するようにと語っている。
教祖が浄化で倒れたという報に、一時は胸塞がれる思いになった信者も、この言葉を聞いて、平静を取り戻したのである。 そのころの教祖の容態は、頭や足に連日激しい痛みがあり、食事も進まず、夜も眠れないことが多かった。
浄化にはいって五日後のこと、教祖は床に臥し、うつらうつらとしていたが、にわかに目を開き、滂沱(とめどなく流れる様)と涙を流し、鳴咽さえあげたので、付き添っていた太田れいが驚いて「苦しいのですか。」、と容態を気づかうと、
「いやそうじゃない、今、大峠の様を見せられた。それは私の想像したよりも、じつにひどかったので、非常に悲しい思いがしている。結局、人類が亡びることを一番悲しむのは、誰でもない、神だよ……。」
という教祖の返事であった。
れいも、またかたわらに控えていた奉仕者も、自身が浄化の中にありながら、なお世を思い、人類の前途を気づかう教祖の心に強く打たれたのであった。
教祖が浄化にはいったころ、瑞雲郷はすでに基本的な造営を終わり、二八年(一九五三年)一〇月には救世会館の上棟祭を迎え、翌二九年(一九五四年)六月には、教祖の設計になるコルビユジエ風の外郭がその威容を現わし、あとは内装の完成を待つばかりとなっていた。そしてその同じ月には景観台において、水晶殿の地鎮祭が行なわれたのである。