神声

 大本開祖の『お筆先』の研鑚と、さらにはまた身辺に生起する神秘的な出来事を通じて、神霊世界に対する目は急速に開かれていった。そして、目に見えぎる神秘な世界、霊界についての認識が深まれば深まるほど、心中には、神事に立ち向かうにふさわしい緊張した精神の高まりがしだいに醸成されていったのである。

 大正一五年(昭和元年・一九二六年)一二月二五日、大正天皇が崩御し、皇太子・裕仁親王が継承、年号が昭和と改まったちょうどそのころのことである。教祖に神憑りがあり、神の啓示を受けた。このことについて、

 「昭和元年十二月或夜十二時頃、未だ嘗て経験した事のない不思議な感じが心に起った。

 それは何ともいえない壮快感を催すと共に、何かしらしやぺらずには居られない気がする。止めようとしても止められない、ロを突いて出てくる力はどうしようもない。止むなく出るがままに任せた処、『筆と紙を用意しろ。』という言葉が最初であった。私は家内にそうさせた処、それから滾々〈こんこん〉と尽きぬ言葉は思いもよらない事ばかりである。」と記している。

 啓示は前後三か月にわたり、便箋三、四百枚にのぼるものであった。それは、原始時代ともいうべき五〇万年前から七〇〇〇年前にいたる日本の創成記に始まって、興味深い人類史を過去から未来へとたどり、また、教祖自身の過去、現在、未来にわたる運命を解き明かすとともに、いっさいを司る神の意図を明示するもので、思いもよらぬ内容ばかりであった。その中における未来についての予言は、後になって満州事変や太平洋戦争、そして、戦後の世界情勢の中に現実となって現われたのである。

 しかし当時、神示はそれのどの一つを取り上げても、容易に信じることのできない内容ばかりであった。そこでしばらくの間、その便箋を取り出しては読み、また仕舞いこむということを繰り返していた。「考えてもわからない」ということから、この記録は教祖一流の諧謔(かいぎゃく)(ユーモアに富んだシャレ)で「ハテナ」と名付けられた。そこで体験できることから一つ一つ確かめていこうと決心して、実践を積み重ねては自問自答するという、ひたむきな努力が始まったのである。

 神示の記録には、内容が皇室の運命に言及するものもあり、万一、官憲の目に触れることがあってはとの危倶から、長い間ブリキカンに入れ縁の下に仕舞っていた。しかし当局の眼は年ごとに厳しくなり、新しい宗教はことごとく弾圧を受け、逮捕、拷問を受ける例が相次ぐようになった。教祖もその例外ではなく、身辺に監視の目が厳しくなり、しばしば出頭を命じられ、事情聴取をされるに及んだ。そこで身の危険を感じて、この記録も焼却してしまったのである。 その後、幾度か啓示の内容を記そうと筆を執りかけたが、時期尚早の気がして、そのままになってしまった。しかし戦後、しきりに時節到来の感じがして、その中でとくに将来の世界の実相をしたためたのが、巻頭の「二十一世紀」の論文である。

 そこには、国家間の文化交流が進み、平和世界が実現して、芸術性に富む快適な生活の送られる様が、きわめて具体的に描かれている。今日すでに実現している事柄も多く、昭和の初めに、すでにこのような事象を見通しえたということは、この啓示の奥深さの一端を明かすものであろう。

 こうして教祖は、神秘な啓示を受けたが、このことは、神が直接教祖に働きかけた最初の出来事である。この時の神は、観世音菩薩という呼称で働かれた。仏教で言われる観音と同じ名でも、その本体はまさしく神であり、この観世音菩薩が教祖の肉体を使って人類救済の大業を遂行することを知らされたのである。しかし、予想さえしなかった啓示の内容に接して教祖は当然驚きもし、時に疑いもし、戸惑わざるをえなかったのである。その時の心境は、後に書いたつぎの一文からも、うかがうことができる。

 「何しろ未だ聞いた事も、見た事もないようなドエライ使命であるから、一介の凡人たる私として、些か荷が重過ぎるように思はぎるを得ないのであるが、ただ委任の当事者が大変な御方で、世にも素晴しい神様と来ているのでどうしようもない。まさか断はる訳にもゆかないという訳で、最初は随分疑っても見、反抗してもみたがテンデ歯が立たない。神様は私を自由自在に操り、踊らせるのである