「会食会」の名のもとに

 昭和一五年(一九四〇年)一二月二三日は教祖五八歳の誕生日であった。その日の『日記』にはつぎのような記事が記されている。

 「誕生日にて東中野、日本閣へ招かる。吾とよし子の外計二十五人なり。新体制の食後、歌笑冠句等ありて歓声旺なりき。」

 この『日記』からもわかるように、教祖はみずからが布教の一線を退き、弟子にお守りの取り次ぎを許した変革を「新体制」と呼んで前向きに受け止めている。したがって誕生祝いのこの会食会は、新体制発足の祝賀の意味が込められていたのである。官憲の弾圧に自重しながらも、心中意気軒昂たる気概がはっきりと感じられる一文で、そこには微塵の暗さもない。 また、この会食を機に、それまで自邸に代表者を呼んで行なわれていた指導会は、おもな弟子の主催する会食という形をとって行なわれることとなった。

 教祖はこの記念すべき第一回の会食の主催を中島一斎に命じた。中島は喜んでさっそくその準備に着手、会場をあちこち探した末、教祖に新宿区東中野の「日本閣」と決定してもらった。

 当日の寒さは厳しかったが、空は紺碧に澄み渡り、すがすがしい好日であった。
 午後五時、教祖が席に着くと、一同を代表して中島が挨拶し、祝杯の後、教祖から当日の祝いの意義について簡単な話があり、次いでこの日のために、教祖自作の歌二七首が井上茂登吉の朗詠によって発表された。これらの歌には、人を救い、世を救おうとする神業を、執拗に妨害する官憲に対する憤りと、また一面、それを数段の高みから達観する心、やがて来たるべき活動の時への希望等々、そのころ教祖の胸中に去来したであろうさまざまな思いが余すところなく歌われている。

  善きことを悪しとみらるる世にありて何をかせんや懐手すも

  世のために竭す真人は何時の世も茨の道をくぐるものにや

  基督<キリスト>も釈迦も再び生れ来よ汝と吾との力試さん
  
  超人の力隠して荒みゆく此現世を静かに視護る

  新しき世ぞ生まんとし国悩み人は喘ぎて尽くるを知らず

  行手には光明見えて胸ぬちに希望の泉み湧き出づるなり
 
 当時は戦時体制下のことで、日常の物資や食糧が逼迫し始めた時代である。昭和一五年(一九四〇年)から、衣類や食料品の一部が切符制となり、また、主食の米も、翌一六年(一九四一年)の初めには配給制度となったのである。このような情勢下の会食会であったから、材料も十分整えることができず、不足分は信者が持ち寄って開かぎるを得なかった。 

 食事ばかりではない。暖房もきわめて貧弱で、冬のさなかというのに、教祖夫妻の席を除けば、それぞれの火鉢には細長い代用炭<*>が一本さしてあるきりで、手を暖めることさえできない。みなは震えながら誕生を祝い、笑い冠句に興じたのであるが、この機会に教えを受けることができたのは、このうえない喜びであった。しかし参加者一同が大広間にはいって席に着いたその途端に停電があり、その後も何度となく明かりが消え、そのたびに祝宴は中断されたのである。参加した人々には、当時の何かにつけて逼迫する社会情勢と思い合わせ、この現象がその後の日本の運命を象徴する出来事のように思われてならなかった。

*木炭不足を補うため、石炭の粉をふのり<ヽヽヽ>などで固めた棒状の炭

 日本閣での誕生祝いを契機として、会食という形をとった指導、歓談の場が、教祖と弟子、
信者の間に定期的にもたれるようになった。
一方、思想統制はますます厳しく、集会活動も禁止され、自邸の宝山荘も多くの人数が集まるのは、はばかられた時代である。宝山荘で大勢の弟子たちを前に教祖が話をすることには常に危険が伴った。それゆえ幹部は会食の形をとることによって、教祖を迎え、安心して教えを聞く機会をつくったのである。印刷された教えもごく限られていた当時、教祖の語る一語一語は、弟子にとって何ものにも代え難い指針であり救いであった。

 こうして、おもだった先達を責任者とする会が結成され、教祖を招待して、各会主催の会食が開かれた。そのころ結成された会はつぎの五つである。

 十一会(後に「天国会」と改称)  主管 中島一斎

 大内会(後に「日の出会」、「五六七会」と改称)主管 渋井稔斎
         

 大和会      主管 坂井多賀男

 東光会      主管 森山卓司
 
 進々会      主管 荒屋乙松

 そのうちに、会食だけでなく、その前後に、映画見物に教祖を案内するのが通例になった。
教祖は実業家時代、新しい映画が封切られると、そのたびに、あちこちの映画館へ見に行くの
が大変に忙しかったと述懐しているが、その後、宗教生活にはいってからは、ぷっつり足が遠のいてしまった。それが立教後二年目の昭和一二年(一九三七年)四月、十数年ぶりに映画館に足を運び、「大阪夏の陣」という時代劇を見て、ふたたび映画に親しむようになったのである。
その後、療術行為の再開を許されてからは、休みの日ごとに映画観賞<かんしよう>を続けたが、一五年(一九四〇年)の第二次・玉川事件を境に時間的に余裕ができたこともあって、ますます多くの映画を観賞するようになった。一六年(一九四一年)から一八年(一九四三年)にかけて教祖はじつに数多くの映画を見ているが、その中には、「巴卦<ぱり>の屋根の下」「ミモザ館」など、今日もなお広くその名を知られた名画も多い。

 映画観賞を兼ねた東京での会食会は昭和一九年(一九四四年)の初め、教祖が箱根に移るまで続けられた。

 おもに使われた所は、芝「紅葉館」、「帝国ホテル」、上野「精養軒」、「宝亭」、「星岡茶寮「雅叙園」、「大東亜会館」、「リッツ」、丸の内「中央亭」、新宿「東京会館」、「平安楼」、「偕楽園」などであった。

 会食会は教祖夫妻だけでなく、長女の通子が同席することも多かった。席上、講話や信仰上
の指導が行なわれたが、そればかりでなく、食事をとりながらのなごやかな雰囲気の中で、教祖と間近に話をかわすことのできる団欒の場でもあった。

 しかし、年ごとに食糧事情は悪くなり、材料の入手も困難となったので、海軍の将校クラブである水交社から融通してもらったり、また鳥肉など、信者が自宅の鶏を届けたりして、誠の奉仕による会食会が続けられたのである。

 こうした信者の誠一途<いちず>な信仰に対して、教祖もまた心を込めて応えたのであった。つぎのような挿話が伝えられている。

 昭和一六年(一九四一年)七月二二日、江の島の対岸、片瀬にある旅館「岩本楼」で「大内会」主催の会食が予定されていた。ところがその日はおり悪しく台風が関東地方に接近して、
前日来の猛雨がいっこう降りやむ様子もなく、かえって激しさを増すばかりなので、教祖は「大内会」主管の渋井に、予定を取りやめ会食を延期してはどうかと言った。しかし渋井は、遠方の信者はすでに出発し、全員が万難を排しても今日の集いに参加する覚悟なので、せめて講話だけでもと懇願した。教祖もそれではと、迎えの車に乗り、豪雨をついて出発したのであった。

 片瀬の海は怒濤ものすごく、海辺の住人たちの中には避難の準備をする人さえあった。会場の岩本楼でも台風に備え雨戸を全部締め切っている。しかし、これほどの嵐にもかかわらず参加予定者は全員が参集した。中には暴風に傘をとられ、ずぶ濡れで会場に着いた者もあった。片瀬には一行のほかに観光客の影はなく、岩本楼を独占した形になった。やがて開会となり、教祖は冒頭つぎのような話をした。

 「時局は風雲穏かならざるあり、今日のお天気もその雛型の如き気がする。こゝにお集りの方は病気の治った方、又は病気で困った人を救ひたいといふ気の大いにある方故、病気といふものには、この療法の治るといふ意味を根本的、徹底的に知っておかなくてはならぬので、出来るだけ判るやうにしたい。」

と前置きし、霊と体との両面から病と浄霊の関係について説いたのであった。

 講話に続いて、食事も予定通り済んで、会食会は無事に終了し、ふたたび教祖は嵐の中を帰路についた。風雨は往路に倍する激しさで、沿道にはすでに浸水している民家もあり、道路は所所あふれ出た雨水で、川のような状態になっていたが、降りしきる雨の中を途中何事もなく、宝山荘に帰着したのであった。