美術館の建物は、六月一〇日に完成した。そしてその日から陳列ケースが搬入され、美術品の陳列は、翌日の一一日から始められた。教祖はその間、終日、館内に在って美術品を並べ、説明カードの位置にいたるまで気を配りながら指揮をとったのである。
この時は出入りの美術商も駆けつけて陳列を手伝った。そして美術品が一品一品並べられていくうちに、その中に評価が高く、かねて売りに出されたらしいと噂されていた品を見つけて、
「ああ、この品もこちらへ納まっていたんですか。」
という驚きの声が、あちらこちらに聞かれ、仕事をしながらも、教祖との間に楽しい語らいが尽きなかった。
開館前日の六月一四日には、夜の八時過ぎまで教祖は夕食もとらずに、入念に陳列の具合を確認した。美術品を両手に包み込むように大切にかかえて、文様の向きやケースとの調和などに留意しながら慎重に並べていくその姿には、長い間の夢が、今まさに実現しようとする喜びにあふれていた。
陣列を終え、観山亭に戻った教祖は、その夜の二時ごろ、よ志を伴って、ふたたび美術館を訪れた。照明に明るく照らし出された陳列ケースの中に、教祖がみずから集めた数々の逸品が静かに並んでいる。教祖は、夜のふけるのも忘れて、もの言わぬ美術品の一つ一つに語りかけるように、見入るのであった。ようやく館内をひと巡りしたのは夜中の一時に近かった。二度、三度と振り返り、あたりを見回しながら立ち去る教祖のその様子から、心中どれほどの思いで美術館の落成を待ちわびていたことか、また美術館が完成した今、どんなに大きな喜びにあふれていることか、見送る館員の心にも、この教祖の思いがひしひしと伝わってくるのであった。
昭和二七年(一九五二年)六月一五日から三日間にわたって、美術館の竣工と地上天国の雛型の完成を祝う記念式典が行なわれた。箱根美術館は聖地・神仙郷の要となるものであり、その開館は、すなわち神仙郷地上天国の雛型の完成の一段階を意味する。教祖はこの日のためにつぎの三首を含めて一八首の歌を詠んだ。
かむながらわが日の本は美の国とさだまりゐるなり忘るるなゆめ
汚れ多き世を浄めむと美の館吾造りけり清き箱根に
真善美完き世界を造らんと神力揮ふ吾にぞありける
これらの歌は、三日間にわたり参拝に集まった延べ数千名の信者によって、力強く唱和された。教祖は連日、美術館完成の意義とそこに意図される神意について講話をした。それは美術館の完成を喜び、今後の神業の飛躍的な進展を示唆する、明るい中にも力強い言葉であった。
参拝終了後、信者は新装成った美術館に次々と入場し感激の面持ちで陳列された美術品を鑑賞したのであった。
外部の招待客に先駆けて、信者に新美術館が披露されたことは、言葉には表わせない配慮があった。それは教祖の構想に応えようとする信者の誠心によって、この美術館は完成したのであるから信者たちの功績をたたえ、まず信者とともに、完成を喜び合おうとする教祖の熱い思いがあったのである。
美術館開館から二週間後の六月二九日より七月一日まで、今度は政治、文化、芸術、報道など各界の著名人や地元有力者を招いて、美術館開館の披露がなされ、設立の趣旨が述べられた。
第一日目の二九日に招かれたのは、箱根、熱海、小田原の地元関係者と、「日本宗教連盟」及び「新日本宗教団体連合会」関係者などであった。
翌三〇日には、作家、芸術家、芸能家、報道関係者が招かれた。作家の中には、川端康成、高見順、丹羽文雄、吉屋信子、芸術家では、書家の尾上柴舟、彫刻家の平櫛田中、蒔絵の松田権六、画家の高畠達四郎、福島繁太郎、川端龍子、中川一政、建築家の吉田五十八、三味線の、杵屋栄蔵、舞踊家の伊藤道郎、さらに放送芸能家・徳川夢声、法政大学文学部長(後に同大学総長)で美術評論家の谷川徹三、報道関係では、文芸春秋社長・佐々木茂索、毎日新聞・広瀬編集局長、東京日日新開・西川編集局長、サン写真新聞・中山編集局長などのほか、文化財専門審議会委員数名といった賑やかな顔ぶれであった。そのほかに教祖の実業家時代から懇意な間柄であった白牡丹社長・松田幸治郎の顔も見られた。
最終日の七月一日には、在日外交官や美術界の関係者が招かれた。フランス大使館のダヴィド、イタリア大使館のソロー参事官のほか、東洋美術協会や国立博物館からも数名、また、参議院議員・団伊能、薬師寺管主・橋本凝胤の名代として、高田好胤(現・管主)の顔も見られた。
教祖はこれらの人々に送った招待状の中で、「箱根美術館長」という肩書きを用いている。招待状を受けた一人である徳川夢声<とくがわむせい><Γ>は、
「箱根美術館長 岡田茂吉」
という文字を見て、それが「世界救世教教主」や、「明主」でなく、「美術館長」とあるところに、その肩書きに心底満足した教祖の、少年のような純一な感情を感じたと述べている。
教祖は七月一日、来賓を前にして挨拶をし、美術館建設の意義について述べた。それは、聖地造営や美術館の建設を文化という側面を柱にして語ったものである。
洋の東西を問わず、宗教が芸術の母胎となってきた世界の歴史〈*〉にかんがみてもわかるように、宗教本来の理想は、真と善に加えて美の世界を造ることにあることから説き起こし、日本の使命が、この美によって世界人類を楽しませながら、優れた文化の向上に貢献することにあると述べたのである。結びに、箱根、熱海に美の小天国を建設したのは、そうした宗教本来の理想を実現し、日本が神から与えられた使命を果たす貴重な一助としたいという意図に基づくものであることを披瀝〈ひれき〉した。
*ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などは、当初、芸術を美の誘惑として拒否したことがあった。しかし、やがてこれらの宗教への帰依の心から優れた芸術文化が花開いたことは周知の事実である。教祖は、この後の時代のことを言っているのである
事実、古来から特権階級に独占されていた芸術品を広く解放し、大衆の心性を高めるという理想に基づいて、この美術館は建設されたのである。これは教祖の確たる信念であった。
こうした教祖の挨拶に応えて、作家の長与善郎は、招待者を代表し、戦後の疲弊した世の中にあって、広く大衆に美を解放しようとする教祖の着想の妙と、その不抜の実行力に改めて感銘を受けた、と述べたのである。
教祖はこの日みずから案内役をつとめ、長年の薀蓄〈うんちく〉を傾けながら、一つ一つ微に入り細にわたる説明をしたが、それぞれに美術に深い見識をもつ来賓の人々も、教祖の造形の深さ、また本質をとらえて表現する感性の鋭敏さに驚きを感じていた。しかも、そうした説明の根底に流れているのは、美を愛してやまない教祖の思いであり、おのずからわき起こる美への感動であった。教祖の喜びと情熱は、箱根美術館を満たし、人々はともどもに芸術三味の心楽しい一日を過ごしたのである。