海外流出を防止

 周知のように、第二次世界大戦直後の日本は敗戦という未曽有の出来事に直面し、大変な混乱の時期が続いた。貴族、財閥、地主などいわゆる特権階級が一挙に転落したのもその一つであった。当時、激しいインフレの嵐が国中を吹き荒れ、そのうえさらに新円切り替え<*>や財産税などのため、人々は経済的苦境に陥ったのである。その結果、土地を売る者も多く、また、先祖伝来の秘蔵していた書画・骨董のたぐいを手放す者も少なくなかった。

 *旧円を強制的に預金させ、引き出せる現金を一定額に制限した措置。急激なインフレーションを押える目的で行なわれた

 このようにして、貴重な美術品が数多く市場へ出回ったが、当時の日本人の購買力には限りがあったので、業者は買い手を海外に求めざるを得なかった。しかも海外の方が高く売れるということもあって、この美術品の海外流出はしだいに激しさを増したのである。識者の中には、
 「もし、この状態が続けば、日本美術の名品は、日本でお目にかかることができなくなる。」と、今日では冗談のように聞こえることが、真剣に心配されたのである。

 文化財保護法<*>によって、「国宝」とか「重要文化財」とかの指定を受けているものは、海外への売却は禁じられていたが、それでもひそかに持ち去られた名品は相当な数に上るといわれている。まして指定されていないものは、野放し同然であった。これを防止するもっとも確実な方法は、国家が買い上げることであるが、それも限られた予算では無制限に買うわけにもいかなかったのが当時の実情である。

 *文化財の保護、活用を意図した法律

 「樹下美人図」は、教祖の蒐集品中、代表的な名品の一つであるが、これもかつて海外流出の危険にさらされたことがある。昭和二七年(一九五二年)夏のこと、まだ「重要文化財」に指定されていなかったこの絵を、龍泉堂の繭山順吉は文化財保護委員会に持ち込んで、国の買い上げを要請した。

 この「美人図」と対をなすものに「樹下男子図」というのがあり、古くから、男女の出会いの場を描いたものとして知られていた。しかも、男子図は以前に国が購入し、東京の国立博物館に収蔵されていたことから、美人図の買い上げも要請したのであった。しかし国側では予算の都合がつかず、この話はついに実現しなかった。やむを得ず繭山は箱根の教祖のもとへ持参して、これは、中国・唐時代の風俗画であるが、美術的にも、文化史的にも高い価値をもつ世界的名品であること、すでに海外で注目しており、流出のおそれがあることを説明して買い上げを願ったのである。教祖はこの時、五五〇万円という言い値通りで購入することを即決した。このいきさつは、少したってから『東京日日新開』に大きく取り上げられ広く世に知れわたるところとなったのである。

 海外流出が時代の大勢となっていたそのころ、もし、教祖が購入していなかったならば、数数の名品が国内から姿を消していたであろうことは、この一例からも容易に想像しうることである。

 教祖はしかし、単なる愛国主義の感情から名品の海外流出を防ごうとしたのではなかった。教祖の信念として、日本の美術は日本の風土のもとで鑑賞してこそ、もっとも美的価値が発揮されると考えたのであった。

 かつて、東京国立博物館の管理部長を勤め、後に、文化財保護委員会・総務部長となった富士川金二は、箱根美術館の建設について、
 「こういう美術館は、現在国家がもっとも要求している条件にかなっているので、われわれも大いに賛意を表し、援助する考えだから、そのつもりで、十分頑張ってください。」
と心から賛同したので、教祖も大いに意を強くしたのである。事実、美術館の運営や、財団法人「東明美術保存会」の設立にあたり、富士川は陰に陽に協力し、約束通り援助を惜しまなかったのである。

 このように、美術品蒐集に関連して、美術品の海外流出を防止し、文化財保護に尽くした教祖の功績は、識者の高く評価するところであった。後に教祖の昇天にさいして、文化財保護委員会委員長・高橋誠一郎が、丁重な弔電を寄せ、教祖の功績を心からたたえたのも、その証しの一つである。