株式会社設立

 すでに記したように、吉川の不手際により借財ができると、教祖はただちに店の再建に着手した。第一の急務は資金の工面であった。商いが回転していくためには相応の余剰資金がいる。はいる金は遅れることがあっても出る金は待ってくれない。それを持ちこたえるためには常に手元に相当な蓄を必要とすることはいうまでもない。

 差押えと、その後の借金返済のために、岡田商店はこのやり繰りが窮屈になった。そこで教祖は一大決心のもとに、大鋸町の自宅に、株式会社・岡田商店創立事務所なるものを設け、個人商店としての経営を改めて、資本金二〇〇万円の株式会社とすることにしたのである。それは禍いを転じて福となす、起死回生の決断であった。

 教祖は親類縁者に出資を依頼する一方、木村や森らに命じて、資金獲得にあたらせた。こうして木村らは東京、大阪をはじめ全国の得意先を奔走したのである。

 今日、「株式会社・岡田商店」の株主印鑑簿が残っているが、そこには教祖を筆頭に一一三名の氏名が記録され、計、五万一一五一株の株券の数が計上されている。

 株主の中には、木村、森など岡田商店を支える店員の名のほかに、兄の武次郎をはじめ、須坂や、先妻・タカの故郷である神奈川県久良岐郡の縁者、また、仲人の松本章太などの名が見える。得意先と思われる人々は、大部分は東京に集中しているが、大阪にも多く、新潟などの裏日本から表日本、本州西端の下関にまで及んでいる。こうした名は岡田商店の取引先の広さをうかがわせるものである。その他、銀座・白牡丹の主人で、双富久会の会長・松田幸次郎も多額の出資をしている。

 この印鑑簿は当時の岡田商店の店員の名前や、取引先、また、教祖の個人的な付き合いを知るうえで貴重なものである。

 このようにして、教祖個人の所有であった北槇町の店舗や在庫商品、旭ダイヤの特許権などを、新しく誕生した株式会社に売却し、手にはいった金をふたたび岡田商店に投資して運転資金の調達が図られたのである。払い込みは前後四回の予定であったが、そのうちの第一回目の五〇万円の払い込みが完了し、再建の見通しが付いたのは、よ志との再婚後間もなく、すなわち大正九年(一九二〇年)二月のことであった。金銭出納帳の記載〈きさい〉が大正八年(一九一九年)の暮れごろから始められているが、これも、家計を少しでも切り詰めて店の建直しを図ろうとした決心の現われであろう。

 旭ダイヤをはじめ、各商品は、引き続き順調に売れているから、こうして落ち着きを取り戻した今、やがて借金を全額返済し、前にも増した発展をしようと、教祖は心ひそかに期していたことであろう。

 店の建直しに懸命の努力が続けられているさなか、よ志は最初の子供を身龍った。結婚した翌年冬のことである。先妻タカとの間の子は、ついに三度とも無事な出産に恵まれず、しかも最後の子供の出産では、妻のタカまでが命を落としたことから、教祖の気のつかいようは一通りのものではなかった。人力車に乗って出かけるおりなど、ときとして前と後ろに空の車を走らせ、自分はよ志のかたわらに乗り、少しでも早く走ろうものなら、「早い、早い、もっとゆっくり行け。」とすかさず車夫に声をかけるという用心深さで、ある日、たまたまその様子を見ていた叔母の太田れいは、
 「どこまでやさしい方だろう。」
と、胸の熱くなる思いがしたという。

 ところが、これほどの心づかいにもかかわらず、よ志は妊娠中に胸をわずらった。幸いにそれほど重いものではなかったが、病気が病気であるので、大事をとって鎌倉の材木座に家を借り、しばらくの間療養生活を送らせた。女中を一人そばに置き、教祖も一時、鎌倉に住んで東京の店へ通ったこともあった。人間として可能な手だてを尽くしきり、これ以上の用心はないというほどの心の配りようであった。

 こうした養生のかいがあって、よ志は鎌倉の大町〈おおまち〉にあった鎌倉産科病院で、無事に女児を産んだ。大正九年(一九二〇年)一〇月一一日のことである。最初のこの子供は、「通子」と名付けられた。

 通子の誕生後も、よ志の健康は今ひとつすぐれなかった。そこで大森駅の北、東京府荏原郡大井町の通称・庚塚に、庭も広く、落ち着いた日本風の屋敷を借り、よ志の保養のための家とした。

 現在この一帯は、蒲田、川崎へつながる人口過密の工場地帯で、およそ保養には縁の遠い町となっているが、大正のころは、品川の海にも近く、郊外の田園地帯であって、駅付近には趣のある家の立ち並ぶ一画もあったのである。

 よ志はここで、通子に続いて大正一〇年(一九二一年)一二月三一日に長男の至麿を出産している。