教祖は天啓を受けたあと、ますます信念を固め使命感に燃えて、人々を苦悩から救うことに努めた。その救いの核心となり、また原動力となったものが浄霊であり、その最終的な在り方が確立されるまで、さまざまな変遷をたどっている。
その力の根源は、昭和元年(一九二六年)の神示を契機にして神から教祖に授けられたのである。教祖はその後、与えられた力をいかに発揮して悩める人々を救済するかという、長い探索の道のりを歩まなければならなかった。体験を通し、神の図らいによって、一つ一つ、思わされ、気付かされながら、一歩一歩確実に歩みを進めたのであった。それは、神があえて教祖に求めた道そのものであったのである。
草創期、教祖の側近に奉仕した岡庭真次郎の記録によれば、昭和五年(一九三〇年)六月ごろの浄霊は、まず『天津祝詞』を奏上し、つぎに合掌したあと、指頭で患部を圧し、掌でさすり、最後に患部に息を吹きかけて終わる、となっている。少しくだった昭和七年(一九三二年)ごろには、相手に掌をかざしながら、「一二三四五六七八九〈ひとふたみよいつむゆななやここの〉たりや── 」という天数歌〈あまのかずうた〉を三回、口の中で唱えて祈ることが行なわれ、また、相手から少し離れ、空中に自分の指頭で、「この中浄まれ」と書くといったことがなされた。あるいは、言霊の力を併用して、たとえば頭痛の人の場合には、「この者の頭の痛み去れ」という言葉を発し、息を吹きかけるという方法、また、合掌して祈ったあと、息を吹きかけながら、掌をかざすということも行なわれた。息を吹きかけるのは、罪穢れを祓い浄める祓戸の神の働きを形に示したものである。
「私が以前病気治しをやってゐた頃『先生は誰からそれを習ったのか』と尋ねられると『大自然から習った』と答へたものです。……私の先生は第一は大自然ですが、次の先生は病人です。実際病人を治していろΧ習った訳です。」
と、教祖は後に話している。毎日多くの病人、しかもさまざまな病気の人々に浄霊を施しつつ、大自然の姿やその動きに思いを凝らして、天地の理法を浄霊に取り入れるということに努めたのであった。痛いところに手をあてるのは人間のもっとも自然な姿であり、人間がその意志をもっともよく集中できるのは手であること、さらに、ものを振ると、それによって霊的な力が発揮されることなどを、浄霊のうちに取り入れていったのである。これが古典にみえる「魂ふり」(衰えた魂を揺り動かしてよみがえらせる所作)に通ずることは疑いえない事柄である。
このように、教祖は、さまざまな研鑚を重ね、神の真意はいずこにあるかを求めて、幾多の変遷をたどりながら、昭和九年(一九三四年)五月には、神与の浄霊法の確立をみたのである。
ただし、当時はまだ浄霊という名称ではなかった。九年(一九三四年)五月以前は「鎮魂」、五月以降は「施術」と呼んでいた。その後、第一次・玉川事件〈*〉が起きた後の昭和一二年(一九三七年)一〇月に活動を再開するとともに、浄霊は「治療」と呼ばれるようになった。さらに戦後、昭和二二年(一九四七年)八月には、宗教法人「日本観音教団」が設立されるとともに「治療」から「お浄め」と呼称されるようになる。浄霊と呼ばれるようになるのは、さらにその数か月後のことである。
*教祖は第二次世界大戦以前、昭和一一年(一九三六年)と一五年(一九四〇年)の二度にわたり、医師法違反を理由に、玉川警察署において取り調べを受けている。一一年(一九三六年)には、一一日間にわたって留置され、一五年(一九四〇年)にも三日間留置された。この出来事を、それぞれ、第一次・玉川事件、第二次・玉川事件と呼んでいる
浄霊法の確立が進められていた当時、つぎのような話が残っている。
ある日のこと、埼玉県大宮市で支部長をしていた武井良英が教祖をたずねたおり、教祖は、
「武井さん、あんたに一度だけ言霊による治療を許すからやってごらん。」
と言った。するとちょうどそこへ、武井の友人で杉並区阿佐ヶ谷で酒屋を営む飛弾友三が、大変な腹痛のため、浄霊を受けにやって来た。そこで、武井はさっそく、
「飛弾さん、そこへ寝なさい、今日は私がしてあげるから。」
と言って、飛弾を寝かせて、
「飛弾の腹の痛み去れ。」
と、たった今、教祖から許されたばかりの言霊による浄めを施し、さらに息を吹きかけ、
「どうだ、飛弾さん──。」
と恐る恐る尋ねた。問われた飛弾は先刻までの苦痛が跡形もなく消えているのに強い驚きを覚えた。そして、武井にこのような力を許した教祖への尊崇の念を深めた。それと同時に、神の力によって人を救う尊い仕事に自分も専心しようと決意し、生業の酒屋をたたんで教祖の弟子となり、麹町時代献身的な奉仕を捧げたのである。
このころ、教祖は、浄霊による治病に大変力を入れ、大森・松風荘の自宅に何人もの病人を宿泊させて浄霊を施した。そればかりでなく、わが子を実験台にしたこともあった。当時、昭和七年(一九三二年)三月二四日に生まれた六合大〈くにひろ〉を加えて、教祖には三男、三女、六人の子供があった。
教祖の次男・三穂麿〈みほまろ〉(大正一二年・一九二三年一二月二日生)は、
「大森に住んでいたころ、入院患者もずいぶんいました。それも精神異常とか、結核などの重病人ばかりでしたが、父は、そういう患者を毎日浄霊しながら、研究を重ねていたようです。 私も身体が弱かったので、始終、浄霊をしてもらいましたが、それとともに私や弟妹たちは、みな野菜ばかり食べさせられたこともあります。野菜ばかりで丈夫になるかどうかを、他人にはできないので、自分の子供を実験台にしで研究したようです。またそのころ、私はよく耳下腺が腫れて、大変苦しみましたが、父は、自然に放置しておくのと、浄霊をするのとでは、どの程度の遠いがあるのかを試していたように記憶しています。
父はまた、大勢の病人の食べる食事についても、その献立などいろいろと吟味しながら与えていました。ですから、私たち元気な子供には、贅沢は許されず、魚などたまにしか食べられませんでした。毎日たくさんの病人がやってきて、ときには子供部屋まで占領されてしまうこともありましたが、父は、一生懸命その人たちに浄霊をしていました。」と当時のことを語っている。