浄霊と幸福

 本教浄霊は病気を治すのが目的のようになっているが、本当から言うとそれだけではないので、もっと大きな意味がある事を書いてみるが、一言にしていえば浄霊とは幸福を生む方法である。というのは単に病気と言っても、もちろん浄化であり、その困<もと>は霊の曇りの解消作用であるのは今更言うまでもないが、そればかりではなく、人間一切の苦悩の無くなる作用である。

 従って貧乏も争いも浄化の現われで、私の言う病貧争ことごとくがそれである。ところが一切の浄化作用の中で最も重要なのが病気であって、これは生命に関するものであるからで、従って病気さえ解決出来れば、貧乏も争いも自然に解決されるのは当然である。もちろんそうなる事が幸福の根本であるから、不幸の原因は全く霊の曇りであるのは、余りにも明らかである。それで、簡単にして確実な方法こそ、霊の曇りの解消法としての浄霊であるから、最初に述べたごとく浄霊は独り病気のみではない事である。それについて一層詳しく書いてみよう。

 以前書いた事があるが、人間の体は現界に呼吸しており、霊は霊界に生きている以上、霊界の状態がそのまま霊身に影響し、それが肉体に映るのであるから、人間の運命のその根本は霊界にあるのである。そうして霊界も現界と等しく、上中下多数の段階になっており、これを分ければ大別して三段階になっている。その内の一段が六十階、それが三分され二十段ずつになって、合計百八十一階級である。そうして一は主神であるから、主神以外は、いかなる神様でも百八十の内のどれかの段階に居られるのである。右は経を言ったものであるが、今度は緯を言ってみると、緯の広がりの一つ一つの段が、地獄から天国までそれぞれ違っているから、仮に現在自分の霊とすると、下の六十段のその又下の二十段に居る場合は、最低地獄に相応するから、これ以上ないほどの苦悩に満ちた世界で、これが体に映って苦境のドン底にある訳である。又その上の二十段に上ると幾分楽になり、その又上の二十段はもっとよくなるというように、それぞれの段階一段一段その苦楽の違うのはもちろんである。それで右のごとき下の六十段を突破すると、今度は、中の段階になる。すなわち中有界、八衢であるから、現界に相応するので、その又中から上の六十段へ入ると、ここは天国であるから天人の地位となり、歓喜悦楽の境遇となるのである。

 右のようにその人の居る段階そのまま通りが運命となるのだから、一段でも上に行くよう心掛けるべきで、上になるほど益々苦しい忌わしい事が無くなり、幸福は増すのである。つまり浄化すべき苦痛の必要がなくなるからである。だから人間は霊身が下段にある間は、どんなに智慧を振い、骨を折っても駄目である。というのは、これが神の天則であって、霊主体従の法則も厳として冒<おか>す事が出来ないからである。故に、幸福になるにはどうしても霊を浄めて軽くし、少しでも上位になるよう心掛くべきで、それ以外に方法は絶対にないので、ここに浄霊の大いなる意義があるのである。

「天国の福音書」 昭和29年08月25日

天国の福音書