今試みにフランスにおける人口動態を示せば、この国といえども十九世紀の初頭には出生率は相当高いのであった。すなわち西暦一八〇一~一〇年には三二・四、一八一一~二〇年には三一・八、一八二一~三〇年には三一・〇であった。しかるに一八三一~四〇年に三〇・〇台を割って二九・〇に低下した。以来低減の一路を辿りつつ一八七〇年普仏戦争当時二五・〇にまで激減したのである。
さらに第一次世界大戦前における出生率は約十九であったが、一九一四~一九年には実に一二・四に激減した。もっとも戦後の出生率はやや回復して一九二〇年には二一・四、一九二一~二五年には一九・四を示したが、その後再び低下を続けて一九三八年には一四・六という悲惨な状態に陥ったのである。これに対し社会学者ラヴージの社会淘汰論には、種々の原因はあるが、その最大原因は生理的不妊症であると述べている。右のごときフランス人口の減退が一八三四年頃から始ったという点に注目を要するのである。
そうして同国の統計において十九世紀初頭すなわち一八〇一年の出生数九十万人、一九二六年七十五万人、一九三一年七十三万人にして、その差は左程でもないようであるが、実はこの期間における人口の増加と比例してみなければならない。すなわち一八〇一年は二千七百万の人口に対し九十万の出生であり、一九二六年は四千万の人口に対し七十五万の出生であり、一九三一年は四千百八十万の人口に対する七十三万の出生であるから、よっていかに出生率の減退のはなはだしきかを察知し得るのである。試みに出生率の動きを示してみる事にする。
期 間 人口一万人に対する出生数平均
一八〇一~一〇年 三二九
一八一一~二〇年 三一八
一八二一~三〇年 三〇六
一八三一~四〇年 二八八
一八四一~五〇年 二七三
一八五一~六〇年 二六一
一八六一~七〇年 二六二
一八七一~八〇年 二五四
一八八一~九〇年 二三九
一八九一~一九〇〇年 二二一
一九〇一~一〇年 二〇六
一九一一~二〇年 一五三
一九二一~二五年 一九三
一九二六年 一八八
一九三一年 一七四
次に世界文明国の出生率減退は決してフランスのみではないのであって、今日においては一の普遍的法則ともみる事が出来る。ただフランスにおいて出生率減退が問題となったのはその減少が最も早くすでに十九世紀の初頭に表われたるによるからである。フランスの出生率減退を対岸の火災視したる各国は、今やフランスと同様の事態に直面する事となった。左に欧州各国の状態を示してみよう。
イギリスにおける出生率は次のごとくである。
期 間 人口一万に対する出生
一八四一~五〇年 三二六
一八五一~六〇年 三四二
一八六一~七〇年 三五二
一八七一~八〇年 三五五
一八八一~九〇年 三二五
一八九一~一九〇〇年 二九九
一九〇一~一〇年 二七二
一九一一~一五年 二四一
一九一六~二〇年 二〇一
一九二一~二五年 一九九
一九二六年 一七八
一九三〇年 一六八
Shirras教授前掲論文による。
一八七一~八〇年に至るまでは出生率は増加の一路を辿ったのだが、以来その方向を転じ加速度的に減少している。すなわち三五五より戦前には二四一となり、一九二六年は一七八、一九三〇年に一六八となった。一八七一~八〇年より一九二六年に至る半世紀間は低落を続け、ほとんど半分以下に減退した。そうしてこれをフランスの減退と比較すればその速度は約二倍半ほど急速である。フランスは一二五ケ年(一八〇一~一九二六年)間に四〇%余低落したに過ぎぬからである。この事実はイギリスをして痛く驚愕せしめタイムス紙のごときは「この世紀に入って以来イギリスの人口統計の著しき特徴たりし出生率減退は依然として継続し、むしろその減退率は益々速かならんとしている」と述べている。イギリス最近の統計は左のごとき悲観すべきものである。
年 次 人口一万に対する出生
一九二一年 二二四
一九二二年 二〇四
一九二三年 一九七
一九二四年 一八八
一九二五年 一八三
一九二六年 一七八
右のごとく一九二六年にはフランスの出生率(一八八)にも劣っている。
次にドイツを見よう。
期 間 人口一万に対する出生
一八四一~五〇年 三六一
一八五一~六〇年 三五三
一八六一~七〇年 三七二
一八七一~八〇年 三九一
一八八一~九〇年 三六八
一八九一~一九〇〇年 三六八
一九〇一~一〇年 三三〇
一九一一~一五年 二八五
一九一六~二〇年 一七九
一九二一~二五年 二一九
一八七一~八〇年に至るまでは出生率は漸次高くなってきたが以来可成急激な減少をし初めた。すなわち三九一より二十世紀の初頭には三三〇と低落した。しかしドイツにおいては一般に出生率の甚だ旺盛なる事に慣れていたのでこの突如たる減退を信ぜずディーチェル氏はこれを怪疑をよってみ、ワグナー氏は一九〇七年においては一時的出生率の干潮に因るとなし、フィルルクス氏は統計的計算の誤りに因るとした位であった。この様にドイツの学者達は出生率減退を信じなかったのである。しかしながら事実は依然としてその低落を継続し、一九一三年には二七六に下った。すなわちこれはドイツが四十ケ年間にその出生率の三分の一を失った事を意味するのである。
次に戦後における状態は次のごとくである。
年 次 人口一万に対する出生
一九二一年 二五三
一九二二年 二二九
一九二三年 二〇八
一九二四年 二〇二
一九二五年 二〇四
一八七一~一九二五年に至る期間に出生率は三九一より二〇四に減退した。すなわち半世紀にその出生率の半分(四八%)を失った。しかもその減退は規則的に継続している。
その下降の速度はフランスの二倍半となっている。
次にイタリアをみよう。
年 次 人口一万に対する出生
一八六一~一八七〇年 三七一
一八七一~一八八〇年 三七〇
一八八一~一八九〇年 三七六
一八九一~一九〇〇年 三四九
一九〇一~一九一〇年 三二七
一九一一~一九一五年 三二八
一九一六~一九二〇年 二二九
一九二一~一九二五年 二九一
イタリアも出生率減退の現象を認め得るが、イギリスやドイツ程はなはだしくない。しかし最近における出生率減退は相当顕著なるものがある。
年 次 人口一万に対する出生
一九二一年 三〇三
一九二二年 三〇二
一九二三年 二九三
一九二四年 二八二
一九二五年 二七五
しかもその減退は依然としていて一九二九年は二五一となっている。ここにおいてかイタリア政府は国民に一大警告を発し、出生率がこのまま減退を持続するにおいては二十世紀末には一大危機に遭遇すとなし、大いに人口の増殖を奨励している。ともかくもイタリアにおいては一九二五年までの約四十年間にその出生率の四分の一を失った事になる。
さらにラヴィノウィッチ氏はベルギー及びスウェーデン、ノルウェーについて統計を掲げ出生率の減退を示している。すなわちベルギーの出生率は約八十ケ年間に四十%を失い、スウェーデンノルウェーについては前者は略々フランスと同じ道程を歩み一世紀間に出生率は半減し、後者はその出生率減退はスウェーデンより後れて始まったが十年間に四〇%を失った。尚スイスは半世紀間に(一八七五~一九二六年)出生率の四〇%を失った。
次に、目を転じて他の大陸を観よう。まずオーストラリア及びニュージーランドはどうであろうか。
年 次 オーストラリア ニュージーランド
一九一三年 二八二 二六一
一九一四年 二七九 二六〇
一九一五年 二七一 二五二
一九一六年 二六六 二五九
一九二一年 二五〇 二三三
一九二二年 二四七 二三二
一九二三年 二三八 二一九
一九二四年 二三二 二一六
一九二五年 二二九 二一二
一九二六年 二二〇 二一一
一九二七年 二一七 二〇三
一九二八年 二一三 一九六
一九二九年 二〇三 一九〇
いずれもわずか十六年間に出生率の三〇%あまりを失っている。欧州とは全く社会事情を異にせる南半球の白人国も又出生率減退の例外ではない。
ラヴィノウィッチ氏は右のごとき諸国の統計によって、世界のあらゆる国家及びあらゆる民族において出生率の減退をみると結論している。
次に、アメリカはどうであろうか。この国は全国的に出生の登録が行われていないから全国について出生率の減退を直接示すべき資料はないが、各調査年度における総人口より純入国移民数を差引き、これと前の調査年度における人口と比較し人口の増加率を計算するならば大体において出生率の動きを知る事が出来る。これによれば一八八〇年以来出生率は減退している。又最近の登録地域における出生率によるも年々出生低下を示せる事次表のごとくである。
年 次 人口千人に対する出生
一九二〇~二一年 二四・〇
一九二二~二三年 二二・五
一九二四~二五年 二二・〇
一九二六年 二〇・六
一九二七年 二〇・六
一九二八年 一九・八
一九二九年 一八・九
一九三〇年 一八・九
Shirras, The Population Problem in India, Economic Journal, Mar., 1933., p. 63. に拠る
次に、南米方面は今の所アルゼンチンだけしか判っていないから同国についていえば一九一〇~一四年の一年平均出生率は千人に付三八・九で自然増加率は二〇・八という素晴しい割合を示していたが、一九三四~三八年の出生率は二五・〇、自然増加率は一二・五と減少したのである。
しからば我日本はどうであろうか。
年 次 人口千人に対する出生
一九一一~一五年 三三・五
一九一六~二〇年 三三・〇
一九二一~二五年 三四・六
一九二六年 三四・六
一九二七年 三三・六
一九二八年 三四・四
一九二九年 三三・〇
一九三〇年 三二・四
一九三一年 三二・一
一九一六~二〇年は世界大戦の影響により、一九一九年(大正九年)には三一・六と最低となり、その翌年は反動によるか三六・二となり、我国最高の記録を作っている。この期間における出生率の変動は世界各国にみる所である。 したがってこの期間を除いて大観するならば、 我国の大正末年までは大体において増加を示し昭和に入って落潮に転じている。すでに述べたるごとく世界における文明国と称せらるるものはすべて早きは百年、遅きは四、五十年来出生率減退の趨勢<すうせい>であるに対し、我国が独り出生率の増加を示せる事は学者間においても大いに注意すべき所としている。
これによってこれを見れば、もはや今日においては出生率減退は文明国における一の通則とも称すべく、いかに世界における文明国が出生率の減退を来したるかは次表に示すごとくである。
国 家 年 数 出生率減退の割合
フランス 百二十年間 四五%
イギリス 五十年間 五〇%
ドイツ 五十年間 五〇%
イタリア 四十年間 二五%
ベルギー 九十年間 四〇%
スウェーデン 百 年 間 五〇%
ノルウェー 七十年間 四〇%
スイス 五十年間 四〇%
要するに出生率減退はフランスがそのトップを切ったまでであって、他のいずれの国も遅速の差はあるがいずれもその跡を遂い、今日ではこれに追いついたものや、又あるものはこれを追越している状態である。
次にフランスの出生率が例外的に低かった時代はすでに過去の事である。今日では全く時代が変って現在の欧州各国は次のごとき状態である(一九二九年)。
フランス 一七七 ノルウェー 一七三
スイス 一七一 イタリア 一六七
イギリス 一六七 スウェーデン 一五二
次に出生率減退と死亡率減退とが相伴って行く事は各国共大体同様であるが、死亡率減退よりも出生率減退の方が例外なく多いので増加率が低減するのである。この一例としてフランスの統計を示してみよう
年 次 人口一万人に対する死亡数 出生超過
一八〇一~一〇年 二八六 七三
一八一一~二〇年 二六〇 五三
一八二一~三〇年 二四八 五八
一八三一~四〇年 二四七 四二
一八四一~五〇年 二三二 四一
一八五一~六〇年 二三七 二四
一八六一~七〇年 二三五 二七
一八七一~八〇年 二三七 一七
一八八一~九〇年 二二一 一八
一八九一~一九〇〇年 二一五 一六
一九〇一~一〇年 一九四 一二
一九一三年 一七六 一五
死亡率は一九一三年までは相当強くすなわち三九%も低落したが、出生率はさらに多く下降せる為出生の超過はその影響を蒙った<こうむった>。十九世紀末より二十世紀の初頭にかけてその超過は甚だ微弱にして死亡超過の年すら表われ、終にフランスの識者が自国の滅亡を叫んだのも無理はない。それがついに一九三八年に至っては同国は約十三万人のマイナスとなったのである。
最後に再び我国における統計を示してみよう。
一九一九年の人口千につき三六・一九を最高として以来低下の傾向を示し、死亡率もまた同様の傾向を示している。
年 次 出 生 率 死 亡 率
一九一九~二三年 三四・八二 二四・四七
一九二四~二八年 三三・六二 一九・四二
一九二九~三三年 三一・六七 一七・八七
一九三四~三六年 二五・七四 一七・三〇
以上によってみても、人口増加率低下という事実は、もはや各国とも一の例外のない一大鉄則となってしまった事を知るであろう。そうしてこれが対策として今日まで各国において行われつつあるところのものは、結婚年齢の引下げ避妊及び堕胎の防止等である。
しかしながらそれ等は末梢的方法で幾分の効果はあるであろうが、到底大勢を阻止する事は不可能であろう。一切は原因があって結果があるのであるから、この問題といえどもその原因を除去する以外、根本的方策のない事はいうまでもない。