自観荘進出

 立教後の教線の発展は目覚ましいものがあった。すでに触れたように、発会式の参拝者は一五〇名ほどであったが、それから四か月後の五月一日、教祖は立教後初めての春季大祭を挙行したのである。この時の参拝者は二百余人を数え、仮本部は立錐の余地もない盛況であった。立教後は毎月、一の日に仮本部の月次祭を行なってきた。五月一日は教祖が浄霊による救いの成果を世に問うべく、麹町平河町の応神堂に岡田式神霊指圧療法の名において進出してから、ちょうど丸一年を経過した記念の日にあたっている。教祖の名が東京の中心である麹町から、しだいに世に広まり、救いの力が注目を集めるようになったその出発の時から一年を経たこの日、深い感慨が教祖の脳裏に去来したことであろう。それを記念して初めて春季大祭を斎行したのである。

 祭典のあと教祖は集まった二百余人の信者を前にして講話をし、応神堂を開設して以来の飛躍的な発展に触れた。昭和九年(一九三四年)の五月に新たな一歩が踏みだされたと同様に、一〇年(一九三五年)の五月からは、神業の上で大きな前進がなされるであろうと語っている。

 この一〇年(一九三五年)五月には、教祖が応神堂から自観荘へ住まいを移したことに加えて、後に述べるように、お守りの在り方が新しくなった。その結果、それまで限られた人にのみ許されていた浄霊が、講習を受け、救済力を持ったお守りを授かることによって誰にでも許されることになったのである。これは画期的な展開であった。

 教祖が神業の進展に伴って、手狭になった応神堂とは別に住まいを借りようと清水に命じたのは昭和一〇年(一九三五年)の四月のことであった。

 清水は二、三日後、麹町一丁目に格好な建物を見付けて教祖に報告した。和洋折衷の二階家で、大きさも半蔵門の前の仮本部と同じくらいあり、神前にすべき二階は一〇畳二間の広さがあった。階上の窓は黒枠、壁は朱塗りの支那風に造られ、階下は洋式のなかなか酒落た建物である。教祖は非常に気に入り、さっそくに借りることになった。家賃は一二〇円であった。教祖は応神堂に移ってから一年たった五月五日にここに引っ越し、この寓居を「いよいよみずから本格的に観音の神業を進める拠点にしたい。」との感懐を込めてか、「自観荘」と名付けたのである。

 一年前、平河町の応神堂へ移転した時は、大森八景園の松風荘に妻子を残してきたが、自観荘へは家族を呼び寄せ、ようやく一年ぶりに家族と一緒に暮すようになったのである。

 滞りなく引っ越しの終わったその夜、教祖は当時の幹部一五人を招き、妻のよ志と長女の通子を交えて自観荘の二階で祝宴を開いたのであった。