前項に述べたところは、大自在天なる言わばバラモン宗盛んであった頃の、主宰者を表わしたのであるが、その当時さきに述べたごとく、日本古来の神々はインドへ渡航し、化身仏となられたので、その化身仏の総領が伊都能売神であって、当時日本における最高の地位であられたのである。ところがその頃素戔嗚尊<すさのおのみこと>を中心とする朝鮮の神々が渡来され、伊都能売神の地位を狙って犯そうとしたが、容易に応諾されない為威圧や迫害等から進んで、ついに生命にまでも及んで来たので、急遽御位を棄てられ、変身によって眼を外らし、ひそかに日本を脱出し、シナを通ってインドへ落ち延び給うたのである。そうして観自在菩薩の御名によって、当時インドの南方海岸にある補陀洛という名の、余り高からざる山の上に安住せらるべく、新たなる清き館を建てられた。この事は華厳経の中にある。曰く「観自在菩薩は補陀洛山上柔かき草地の上に金剛精座を出来、二十八部衆を従え結伽扶坐して説教をされた云々」とある。当時まだ善財童子という御名であった若き釈尊は、この説教を聴聞して、その卓抜せる教に感激するとともに心機一転してそれまでの悉達太子という皇太子の御位を放棄し、一大決意の下に、当時紊れていた俗界を離脱し、直ちに檀特の山深く別け入り、菩提樹(一名橄檻樹)の下石上に安坐し一意専心悟道に入るべく、修行三昧に耽ったのである。この修行の期間について、諸説紛々としているが、私は七ケ年と示された。
そうして業成り出山するや、いよいよ釈迦牟尼如来として仏法開示に、取かかられたのであるから、実際上仏法の本当の祖は、日本の伊都能売神であった事は確かである。そうして今一つ日本から仏法が出たという証拠として見逃し得ない一事がある。それは仏教でよく称える本地垂迹<ほんじすいじゃく>の言葉である。これは私の考察によれば、本地とは本元の国すなわち日本であり、垂迹とはもちろん教を垂れる事である。すなわち最後に至って、故郷である日本全土に、一度仏の教を垂れるとともに、仏華を咲かせ、実を生らせなければならないという密意である。又今一つは観世音の御姿である。その最も特異の点は、漆黒の素直な頭髪で、これは日本人特有のものである。それに引換え釈迦、阿弥陀は全然異った赤褐色、縮毛であるにみても、両如来がインド人であった事は明かである。又観世音の王冠や、首飾り等も、高貴な地位を物語っており、頭巾を被られているのは御忍びの姿である。
そうして又釈尊の弟子に、法蔵菩薩という傑出した一人がいた。彼は一時釈尊から離れて他の方面で修行し、業成ってから一日釈尊を訪れていうには「私は今度インドの西方に一の聖地を選びて祇園精舎を作り、これを極楽浄土と名付けた。その目的は今後世尊の御教によって、覚者すなわち仏の資格を得た者を寄こしてもらいたい。さすれば右の極楽浄土、別名寂光の浄土へ安住させ、一生歓喜法悦の境遇にあらしめるであろう」といって約束をされたのである。寂光とは寂しい光であるからもちろん月の光である。ところがこの法蔵菩薩が他界するや、阿弥陀如来の法名となって、霊界において一切衆生を救われたのである。つまり現界は釈迦、霊界は阿弥陀が救うという意味である。
そうして観自在菩薩は、終りには観世音菩薩と御名を変えられたのである。これは梵語ではアバロキティシュバラの御名であったが、後シナにおける鳩摩羅什<くまらじゅう>なる学者が訳され、観世音と名付けられたという事になっている。ところがこの観世音の御名については、一つの深い神秘があるから、それをかいてみよう。