一変した社会の目

 美術館の完成を機として、社会の教団に対する考え方は一変した感がある。美術館の開館は多くの新聞紙上に報道され、異色の美術活動として世間の注目を集めるにいたった。教祖が説くように、宗教と芸術は歴史的に見てもその使命からいっても、本来、きわめて密接な間柄にあるべきものである。しかしその事実はあまり強く意識されることがなかった。したがって社会からはこの美術館の創設は新鮮な驚きをもって受け取られたのである。各紙は教祖の意図を理解し、好意的な取り上げ方をした。

 「大自然に囲まれた美術館」『サン写真新聞』(昭和27・6・17)

 「箱根に美術館 浮世絵の名品も集めて」『東京日日新聞』(昭和27・7・2)

 「自然美のなかの人工美 メシヤ教が作った強羅の美術館」『報知新聞』
(昭和27・7・19)

 美術館の完成後、教祖のもとを訪れた人々の中には、出版、報道関係者も多かった。読売新聞社科学部次長(後に同社取締役)・為郷恒淳、文芸春秋顧問・日置昌一、北国新聞社の高見範雄などである。これら取材に訪れる人々の態度からは、明らかに好意的な姿勢が感じられた。従来の取材が揶揄、批判に片寄りがちであったことを思えば、まさに隔世の感があった。

 それまでは、教団の急速な発展に対し、また浄霊や自然農法に対し、誤解や偏見があった。それに加えて昭和二三年(一九四八年)から二五年(一九五〇年)にいたる不幸な事件などがあり、教団に対する社会の目は厳しく、不可解な邪教として白眼視する向きが多かった。しかし芸術的に見てきわめて質の高いコレクションを擁する美術館の建設によって、文化的事業のうえで第一級の仕事をなし遂げたことが内外にはっきりと示されたことにより、まず日本の知識人の間に、世界救世教の存在を改めて見直そうとする姿勢が生まれてきたのである。