教祖は大正九年(一九二〇年)に大本に入信はしたものの、彦一郎の死などによってしばらく大本から遠のいていた。ちょうどそのころ、大本は時の官憲から弾圧を受けたが、これがいわゆる第一次・大本事件と呼ばれるものである。
大本が飛躍的発展を遂げた大正五、六年(一九一六、七年)から一〇年(一九二一年)ころの日本は、前に記した通り近代産業の発展によって、多数の労働者が生まれ、その後の不景気の結果、労使間の緊張が高まり、ストライキが続発するとともに、不況は農産物価格の下落を招き、農民の間にも生活苦が広がっていった。
このような不穏な世情の中で、世の行き詰まりが近づいていることを訴え、神の教えに基づいた立直しを叫ぶ大本の主張は、時の政府にきわめて危険な内容と映ったのであった。
大正一〇年(一九二一年)二月一二日、大本の聖地綾部は二〇〇人の警察官によって包囲され、出口王仁三郎をはじめ浅野和三郎ら幹部多数が検挙されたのである。その容疑は不敬罪、新聞紙法違反などであり、教団の徹底的な弾圧が行なわれた。当局は教団が竹槍一〇万本、爆弾を隠し持って、一斉蜂起を計画中と宣伝した。そして、いまだ判決のおりない審理中にもかかわらず、神殿や開祖・なおの奥津城(墓所)の破壊を命ずるといった、強引な弾圧が行なわれた。しかし、大審院の再審中、御大典(大正天皇の葬儀)の恩赦で免訴となり、決定的な破局は避けられたのである。
三年間、教祖は大本を離れてはいたが、すでに大正九年(一九二〇年)に開眼した信仰への思いまでが、消え去ったわけではなかった。その間、大本開祖の『お筆先』を読んだり、あるいは心霊研究グループにつながりを持つなど、神秘な世界への模索は続けられていた。この時代にとくに意を注いだのは『お筆先』の研究であった。そして教祖の直観から、その言葉の奥に隠された、将来への予言を感受した。その一つは「東京はもとのすすき野になるぞよ。」という一節である。教祖は、この教えを手がかりに、「今に東京は火の海になる。」
との予見をいだくにいたったのである。
そして大正一二年(一九二三年)五月、前述したように大鋸町の屋敷を売却し、東京府下の大森に移転した。しかもそのさい、当時の売値五万円を下らないといわれていた屋敷を、三万六五〇〇円という安値で手放してしまったのである。これを知った親戚の者は驚いて、
「なぜそんなに安く売ってしまったのか。」と問い詰めたが、教祖が、
「そんなことを言うけど、今にみんなここへ来なけりやあならないんだよ。」
と謎のようなことを言うばかりなので、みな呆れて引き下がってしまったのである。
そのころ教祖は、「東京が火の海になる」という異変の予感がしきりにしていたようである。
突然の自宅の売却や親戚に話した謎めいた言葉は、その裏付けといえるであろう。岡田商店の商品も、当時はできるだけ製品のストツクを置かず、注文に応じ、作っては納める方式に改めていたといわれる。これが効を奏し、関東大震災が起きた時にも在庫品が少なかったので、損害を最小限に食い止めることができたのであった。
震災後、この大森の屋敷は、焼け出された親戚、知人、店員でいっぱいになったが、来るものは拒まず、利害得失を越え、心を込めて世話をした。その中に大鋸町売却について詰問した親類の者もいて、わずかの荷物を車に積んでやって来た。そして言うのに、
「とうとう、お前のいう通りになってしまった。」と頭を下げたのである。
また、京橋、銀座あたりの名の通った店主の親睦団体、双富久会については、前に記したが、大正一二年(一九二三年)六月下旬のある日、会のリーダーであった白牡丹の主人、松田幸次郎が、横山町から銀座へ進出することを決め、普請の前祝いに会員を招いて夕食会を開いたことがあった。ところがその席上、教祖が、
「今に東京中火の海になる。」
と言ったので、びっくりした松田は、
「そんなバカなことがあるものか。」
と一笑に付したのであった。ところが、はたしてそれから間もない九月一日、大震災による火災で東京は火の海と化してしまった。その予言があまりにもみごとに的中したので、松田はすっかり驚嘆して、
「あんなこと、岡田はどこで聞いたんだ、大変なことを言う奴だなあ。」
と言ったという。神様のようにみごとに当てたというので、このことがあってから教祖には、「神様」という渾名が付けられたのである。
教祖がふたたび大本に心を向けたのは、この大震災後間もなく、大正一二年(一九二三年)の秋から冬にかけてのことと考えられる。震災による事業のつまずきに加え、妻・よ志との間に初めて授かった男児の至麿が、この年の一〇月三日に亡くなっている。生後わずかに一年九か月、至麿は幼いながら利発な子であったが、震災後疫痢が流行し、それに至麿もおかされたのに気付かず、ついに手遅れになったのである。
ともあれ震災により岡田商店の経営には大きな曲がり角が訪れた。自分の店にあった商品の被害は最小限に食い止めたが、あちこちの店が倒産し、貸し倒れが相次いだ。岡田商店の経営はふたたび逼迫し、繁栄を取り戻す道は事実上閉ざされてしまった。震災後一、二年は旭ダイヤの売れ行きが好調で、店は一応の活況を続けたが、その後旭ダイヤが不調になると、年々店の経営は悪化していった。教祖はかつて画家や蒔絵師の道をめざした時にそうであったように、またしても挫折の苦汁をなめた。しかし、こうした苦難に遭遇したために、かえって今度こそ、いよいよ腹を据えて、専心、信仰の道一途に没入していくこととなるのである。
いまひとつ教祖を信仰の道に強くかり立て、突き進ませた積極的な理由があったと考えられる。それは「東京が火の海になる。」というみずからの予感の適中である。『お筆先』研究をきっかけに、直観によってこの予言をロにしたのであったが、それがはたして現実となったのである。これは、見過ごすことのできない神秘的な証しである。
こうして教祖は見えざる神秘の世界の確かな手応えを得て、いよいよ信仰の道に没頭し、より一層、神秘探究への意欲を燃え立たせた。そして、さまざまな書物をひもとき、多くの人物との交わりの中に解決を求めていったのである。それは教祖の心の底に長い間潜んでいた霊性を磨き、みずからがこの世に生まれた人生の意味を問いただし、今後の真に生きる生き方を極めるという、自己一身を磨く道であった。
しかも、その結果、明らかにされた道は、教祖一身の生き方に止どまるものではなく、研鑚が深まり、徹底するにつれてそれはやがて広く世の人の生きるべき道に拡大されていったのである。