一布教師として

 昭和の初期から、大本では、人類愛善運動、梅花運動という一連の思想改革運動に大きな力を注ぎ、個人的な苦悩よりも、むしろ社会全体の思想を改革して新たなる世界を築こうとする方針をとっていた。したがって浄霊によって病を癒し、悩める人々を救う道に全身全霊を打ち込んでいた教祖は、おのずから独自の道を極めていくこととなったのである。昭和六年(一九三一年)のころのある日、大本の思想運動の責任者が、
 「岡田さん、病気治しも結構だが、そればかりでは困る。運動の方にも、もっと力を入れてほしい。」
と、苦言を呈したことがあった。すると教祖は、 
「それはわかっています。しかし、あちこちから頼まれるので、今は運動どころではない。それに、今、現実に苦しんでいる人を救うということは大事中の大事ではないですか。運動では直接人を救うことはできません。」

と答え、一歩も譲らなかった。もちろん、当時大本の宣伝使の一人であった教祖は、思想運動を無視していたのではない。支部を回って講演をする中で、この運動について話をしてもいるのである。したがって思想運動にも携わりながら、その中を身に降りかかる批判、非難を覚悟のうえで浄霊による人助けにかけた教祖の情熱と意欲は、並々ならないものがあった。

 昭和六年(一九三一年)の『日記』には、

 御神業いよΧΧ忙しく身も魂もへとくになり疲れ果てけり

  次々に病人来り目も開けぬ許〈ばか〉り忙しくなりにけるかな

と詠んでいるほどである。

 このころの教祖は、みずから信者の家をたずねて行ったり、あるいはやってきた信者と、時のたつのも忘れて話し合ったり、また、一人一人に浄霊を取り次いだりするというように、一人の布教師として、救世救人の神業に身を挺したのである。それはみずからの力徳を内に秘め、俗世間に身を投じるという「和光同塵」の言葉そのままに、観音の教えを行ずる一信仰者の姿であった。昭和四~六年(一九二九三年)の『日記』にはつぎのような歌が見出される。

  五時間に亘りて説きし神業に胸はれ欣び○○氏去〈い〉くも

  風邪未だ治らず寒き夜の街をあちらこちらに行くぞ苦しき

  睡眠の不足の為めか今日一日流石に元気引き立ちかぬるも

  昨日よりの風邪〈ふうじや〉の為に心地悪しく鎮魂多勢に疲れはてけり

  五、六人の信徒残りて信徳の話に徹夜なしにけるかな

 昭和七年(一九三二年)四月のことである。腹痛を癒され、酒屋をやめて布教の専従者となった飛弾友三は、以来大森の分院で奉仕をしていたが、能登にいるその甥が肺炎をこじらせて重態との知らせを受け、浄霊に駆けつけて行った。しかし、その容易ならぬ病状に、自分の力に余ると感じて、東京へ帰ると、教祖に能登行を懇願した。教祖は、自分が行って浄霊しても助かるまいと直感したが、甥を思う飛弾の愛情にほだされ、能登へ行くことを承諾し、四月八日午後八時、横浜から夜行で能登へ向かった。翌日の午後二時半、七尾の浅井宅へ到着、三度にわたって浄霊を施した結果快方に向かったので、その夜の八時の夜行で発って綾部を経て、四月一二日帰京したのである。しかし、それから二日後の一四日の朝、容体悪化の電報が届き、教祖はふたたび夜汽車で往復した。

 「初めて病児を見たとき死相を感じたが、一生懸命看病している家族にはどうしても気の毒でダメだといえなかった。」

と後に飛弾に話したことであったが、万が一にも救われればという思いで、多忙の中、時間をさいて二度までも遥か七尾に足を運んだのであった。しかし、幼児は教祖が二度目に七尾から帰った翌日に息を引き取ってしまった。この間のことが『日記』にはつぎのように記されている。

  米原に汽車乗かへて能登の国七尾へ午後の二時半に着く

  三回の鎮魂に大に快くなりて両親共々喜ぶ

  病人の痛快けれど衰弱の甚だしきをば心つかゐぬ

 それから一か月ほどたった五月のなかばにも、教祖はまた交通の不便をかえりみず、千葉県の片田舎へ泊まりがけで浄霊に出かけている。それは麹町にいた信者・川越よしが、千葉県夷隅郡東村に住む義弟で癲癇〈持ちの越河某を救ってもらいたいと願って来たからであった。五月一四日の夕方、両国駅を発ち、夜の一〇時半ごろ、片田舎の農家である越河家へ着くやさっそく浄霊を取り次いだのである。さらに翌朝起きるとふたたび浄霊を取り次ぎ、その日のうちに帰京をしている。

  午後十時半頃へんぴの百姓家越河方へ着きにけるかな

  越河氏方を十二時頃に発ち両国へ着し麹町へ行けり