関東大震災は多くの人命を奪ったばかりでなく、首都圏を中心に当時の金額にして六五億円にものばる損害を出した。経済界に与えた打撃は計り知れないものがあり、いわゆる震災恐慌が起こったが、これは昭和二年(一九二七年)の金融恐慌の遠因ともなったのである。
しかし、被災者が復興に立ち上がり、政府も公債を発行して救済にあたったので、さしもの混乱もようやく収拾に向かい、大森の屋敷もしだいに落ち着きを取り戻した。
そして、やがて北槇町の店が再建されると、教祖はふたたび、大森から電車に乗り、時間にして一七、八分の道のりを朝晩通うようになった。
震災後再建された店は、復興時の都市計画で道路が拡張され、少し奥行きがせばまって店員も少なくなったが、それでも旭ダイヤの売れ行きはまだまだ良く、今までの信用もあって出入りの職人や店員で、なかなかに賑わっていた。大きなガラス戸のある表口をはいると、一方に二〇畳ほどの職人のたまり場があり、そこに「士魂商才」という横額が掛けてあった。もう一方には店員の机が並び、地方に発送される箱詰めの商品が積んであった。教祖の仕事部屋は奥にあり、鉤の手になった岡田商店の建物と隣りの桐渕眼科との間には一〇坪(三三平方メートル)ほどの中庭があって、窓からは庭木の緑が目に涼しかった。
教祖は店へ出ると、昔ながらにデスクに坐り、一人一人職人を呼んで、できあがった品物を見る。仕事に疲れると、パイプを吹かしたり、新聞を読んだりする。それは震災前と同じ姿であったが、ひとつ違うのは、鉱石ラジオをかたわらに置き、レシーバーを大きな耳に当てながら応対をすることだった。震災の翌々年、大正一四年(一九二五年)の七月、東京芝浦の放送が始まると、さっそくラジオを買い、好んで放送に耳を傾けたのであった。
夕方、仕事に区切りがつくと、店員に見送られて店を出て、大森へ帰るのであるが、ときには人力車を拾って夕暮れの雑踏に活気づく銀座の街並を楽しみながら新橋駅へ出て、そこから電車に乗ることもあった。
大森での教祖とよ志の生活には、世間の標準的な夫婦と趣を異にする一面があった。お嬢さん育ちのよ志は結婚後もあまり家事が得手ではなかったらしい。それこそ献立の細々としたことまで、教祖が指示をしたといわれる。
よ志の女学校時代の友人で、日本画家の小畠鼎子は、やはりこれも画家である夫辰之助の洋行中、岡田家の世話になったことがある。大正一三年(一九二四年)から一年ほどの間のことである。これはそのころの話である。
いつものように教祖が店へ出て行ってから、よ志は翌朝の味噌噌汁に入れる実を聞いていなかったことを思いだし、さっそ店へ電話を入れた。教祖はいつもよ志のことを「きみ」と呼んでいたが、
「ねえ、あしたのお味噌汁何にしたらいいかしら。」
「そうだね、きみ、豆腐にしなさい。」
というようなやりとりがたびたびあったので、小畠はよ志に、
「あなたは献立の心配をしなくてもいいから、幸せね。」
と言ったことであった。
このころの教祖は就寝する時間が大変に遅かった。夜は店の再起をかけて、新製品を考案するための大切な時間である。床につくのはすでに真夜中の一時を過ぎていることが多かった。したがって起床も遅く、小畠がいる時などは、よ志と小畠との三人で、絵画や子供の話をしながら、遅い朝食をとり、それから店へ出かけるのであった。
二女の三弥子が生まれたのはこの時代、大正一四年(一九二五年)八月一五日のことである。