さて、昭和二十七年になって、總斎は明主様にお願い申し上げ、もう一度、世田谷区上野毛の宝山荘を拠点に布教を開始した。そして、總斎は昭和二十七年七月、明主様から「宝生教会」という名前をいただいた。
さらに總斎は明主様から、
「私の代わりはあなたしかない。私に代わって富士見亭に住むように」
とのお言葉を賜わっている。富士見亭というのは、宝山荘の中にある離れの名称であり、明主様のお気に入りの建物であった。明主様は昭和十一年に、宝山荘の南西の一画に富士見亭を建てられ、宝山荘時代には、十年近くに及んでここを住まいとされていたのである。この富士見亭内で明主様はご揮毫や執筆を行なわれており、御神業上きわめて重要な意味を持っていた建物である。
總斎が明主様に代わって、宝山荘に住まうようになった昭和十九年から昭和二十三年の間も、ここだけは明主様のお住まいとして毎日奉仕者が掃除を欠かさなかった。だが、總斎が富士見亭で生活をするということは考えられないことであった。その後「日本五六七教」の東京別院として渋井の管理下にあった時も、そして「日本観音教団」の管長時代も、富士見亭だけは特別の建物として丁重に管理されていたのである。
その富士見亭について、明主様が總斎に、
「住むように」
とのお言葉をかけられた。当初はあまりにもおそれ多いとして、富士見亭を使うことは總斎も遠慮していた。しかし明主様からは、「富士見亭を使うように」
と、何度もお言葉があった。
「明主様のお言葉に従わないのは失礼にあたる。あまりにも頑なに明主様のお言葉に従わないのは、明主様のみ心に沿わないことになるではないか」
總斎はそう考えて、この明主様の温かいお申し出を受けることにした。そして、宝生教会長として宝山荘に転居してからしばらくたったある日、總斎はありがたく富士見亭を自分の住居としたのである。
明主様からの強いお勧めにより、宝山荘に住まうようになった時、宝山荘の門に總斎自身の表札を初めて掛けた。観音教団の管長時代でもそのようなことはあり得ないことであった。これも明主様からのお勧めであった。
宝生教会は旧五六七教会系の二教会を合併し、順調に教線を拡大していった。宝生教会から明主様の許に届けられる献金額は、またたく間に再び教団の中でトップクラスとなったのである。ここでも布教師としての總斎の力量のほどがうかがわれよう。總斎がここで初心に帰って布教活動に取り組んだ成果である。献金額の増大はその結果であった。
しかし總斎はただやみくもに献金集めに、信徒集めに奔走していたわけではない。總斎はただ自然に振る舞っていたのである。そして宝生教会での總斎の信徒に対する接し方は、かつての熱情溢れる厳しいものから、以前に増して人間味に満ち、円熟した温かみのあるものに変わっていた。法難の傷を克服した逞しい姿がそこにあった。この宝生教会での日々が、明主様に捧げた總斎の晩年における最も穏やかで、平安の時であった。
宝生教会時代の昭和二十八年、明主様は總斎に「おひかり」を与えられた。何をいまさら總斎が「おひかり」を頂戴しなければならないのか。
明主様はこれまでの御講話やお話の中で、總斎のことに触れた場合、
「渋井さんは特別だから」「あの人は別として」
とよく言っておられた。
この時、明主様が總斎に与えた「おひかり」は「大神力」であった。おそらく明主様が直接お出しになった、最後の、そして最大のものであろう。
お力のもっとも大きいこの「おひかり」を頂戴した總斎はたいへん喜んだ。この日は、渋井家では赤飯を炊いて祝ったほどである。
明主様は「大神力」を總斎に手渡す際に、
「この世の終末の時、一度に大勢を救わなければならない時のために」
とおっしゃられたという。