一布教師として

法難が始まり、しばらくして總斎はその責任のすべてを負い、教団の役職を辞任した。教団はこの機会に新たな組織に改変した。そのため長年培ってきた「五六七大教会」も解散となった。總斎も教団中枢から外れ閑職となった。總斎は改めて布教の第一線に立とうと決意した。法難後、本教の教勢がまたたく間に衰えていったことを、總斎はたいへん憂慮していたからである。

 この時のこととして次のような話が伝わっている。それはこの件に関して教団から、明主様のお言葉として、
「当局を刺激する。一切布教に出るな」
 と言われて、總斎の行動をたしなめられたという話である。

 もし今でも、總斎に対して明主様がこのように発言されたと思っておられる方がいたら、この間違いを正していただきたい。実は真実はこれと正反対で、明主様は總斎のこの決断をたいへん喜ばれていた。

『種子蒔く人』(胡田五著)によると、

 總斎は病床にある間、また法難の裁判中、それまで頻繁に出かけていた地方講習を休まざるを得なかった。しかし、関西方面からの何度も強い要請があり、總斎もついに断わり切れず、何ヵ所かに出張講習をしたのである。信徒たちは喜び熱狂的に總斎を迎えた。どこでも予想以上の大盛況を呈した。「復活会」と名づけた会が、全国の總斎の弟子たちの間で持たれることになった。この久しぶりの全国行脚によって全国で約五千名の入信者があった。

 總斎のこの地方講習を聞いて喜んだのは信徒ばかりではない。何よりも、明主様が信徒以上に總斎の地方講習を喜ばれたのである。

 当時、明主様のお側に仕えた者が聞いたところでは、總斎が地方からの要請で地方講習に出かけたことを聞いて、
「なに! 渋井が動き出したと」
 と、喜色満面となられ、さっそくご揮毫にとりかかられたという話である。

 この時、まわりの者にも見せたことのないほど、明主様のお顔から大きな笑みがこぼれていたという。明主様がいかに總斎に期待されていたのか。またその期待に沿って總斎が決断したことを、いかに喜ばれていたのかをうかがい知ることができる話である。

 總斎は、法難後の教団に自身で何かできることはないかと考えていたのである。自分が明主様のために率先して立ち上がらなくてはならない。しかし、教団を活性化させようとしても、多くの幹部や専従、奉仕者の後ろで指揮を執るだけでは人びとを動かすことはできない。總斎がみなの先頭に立って、布教活動に取り組まなければならないと思ったのである。

 明主様も總斎と同じく、法難後の教団の現状を憂えておられた。そして、当局からのいわれなき嫌疑に対して、怒りをもっておられたのである。そのような明主様が、總斎のこの決意を喜ばれこそすれ反対されることはない。明主様が、總斎の布教活動をたしなめられたとしたら、それは總斎のこれまでの立場や、すでに脳溢血で倒れたことのある總斎の健康のことを気遣ってのこととしか考えられない。教団内で重責を果たし、管長まで務めた總斎がもう一度、布教の最前線に飛び出そうというのである。總斎のこの決意に驚かない者はいない。しかし、教団組織内からのさまざまな掣肘<せいちゆう>はあったにせよ、總斎は固く決意してこれを実行に移そうとした。

 それを明主様は喜ばれたのであろう。次のようにお言葉を述べられている。

 (前略)どうしても発展性は緯の広がりでなければならない。そこで、今度渋井さんが、その働きをしなければならない。丁度、事件当時──事件が起るや否や──渋井さんが脳溢血で倒れた。中風ですね。普通だったら、今もしようがないんだけれども、何しろ一時はフラフラになって、やっと旭町から歩いて来る様な──ものにつかまって、やっと歩いて来る位だった。口もきけなかったし、頭もぼっとして、どうにもならなかった。最近は私の浄霊によって殆んど治って来た。この間京都に行って見た処が、どうやら活動出来る様になったと言う事で、いよいよ時期が来た。それで、渋井さんが大いに働く事になったんです。この間、渋井さんが言う事には、自分が教修をしたのは十何万──十万以上ある。それが、あとがまことに育たない、と言うんです。本当に順調に育っている人は、何分の一だと言うんです。ところが自分がああ言う様な病気だから仕方がない。新しい信者を作るのも肝腎ですが、復活させるのも肝腎で、手っ取り早いと言うんです。それで、私も大いに結構だからやりなさいと言った。(後略)
(『御教え集』三号、昭和二十六年十月十八日)

 現在の教団の窮状を救うことができるのは、信仰とは何か、御用とは何かを正しく理解し、そして多くの人びとに「世界救世教」の教えを伝える力を持った、總斎以外にあり得なかったからである。

 実は明主様も、法難後に布教の前線に出て行かれたのである。法難直後から、明主様は自ら講演会を各地で開かれている。これまで明主様は、浄霊と出版物の刊行による宣教活動を主に進めてこられたが、法難後には、これに加えて講演会を開かれ、直接自ら信徒に語りかけられるようになったのである。このために教団本部に宣伝部が組織されることにもなった。そして昭和二十六年の五月二十二日、初めて明主様は東京・日比谷公会堂で三千数百名の大観衆の前に立たれたのであった。

 明主様にしても、總斎にしても立場こそ違え、その思うところは同じといってよいだろう。

 新聞等マスコミで伝えられる歪められた「世界救世教」の姿を、何とかして正し、その真の教えを伝えたいと思っていたのである。明主様は講演会に、總斎は一教会長として布教に出て行った。明主様が六十九歳、

總斎が六十六歳の時であった。