清水町仮本部で面会が行なわれるようになったのは、昭和二三年(一九四八年)の一〇月からであるが、これから後、しばらくの間、教祖は仮本部で寝起きをしていた。そのうち、国鉄伊東線来宮駅の近くに格好の売り物が出た。もと久邇宮家の別荘だったので立派な造りであるし、東側は開けて熱海市街越しに初島を眺める景勝の地を占めている。教祖は気に入ってさっそく購入、清水町仮本部から移転し、ここを居邸とし、清水町へ出かけて神務を執ることとしたのである。
しかし、当時、強請<ゆすり>や集<たか>りなどが盛んに教祖を狙って来ていたので、この「碧雲荘」の存在も内密に扱われ、清水町で参拝が行なわれる時などは、教祖自身裏口から徒歩でひそかに出入りするといったことがしばらく続いたのであった。
けれども、その一方で碧雲荘時代の数年は、神業の発展に伴い、教祖の一生の間で、もっとも多忙をきわめた時期であり、また同時にもっとも多面的な経綸が実現していった時代でもあった。
教祖がこの世にあって、神の経綸のまにまに神業を進め、その生涯の最後の数年を過ごし、そして昇天をした場所となったという点で、碧雲荘のもつ意義は大きなものがある。