教祖は観山亭が完成すると、次いで、昭和二二年(一九四七年)五月に、強羅園時代からの貸し別荘の一軒を、観山亭の裏の斜面へ移転、修復して「萩の家」と名付けた。教祖には、この貸し別荘に格別の思い出があったのである。それは大正の末に、神仙郷がまだ箱根登山鉄道の経営する和風公園であったころ、数軒ほどあった貸し別荘の一軒に、一夏を過ごしたことがあった。その思い出を忘れることができなかった教祖は、そのうちの一軒を修繕し、離れとして使用することとしたのである。
萩の家は、初め来客の宿舎にあてられていたが、後にはもっばら揮毫の場所として使われた。
萩の家の前には、後に、その名前にちなんで「萩の道」が作られた。初秋のころ、花のトンネルのようにしだれ咲く紅白の宮城野萩は、みやびやかな趣をかもし出して、訪れる人々の目を楽しませてくれる。
ここで注目すべき点は、道の両側の岩の置き方である。ここの岩組は、一つ一つの岩の大小、高低を巧みに利用し、互いに調和しておのずから屈曲した道になっている。この岩組を見た、ある造園の専門家は、
「たいていは〝面を並べる〟といって、平らな面を並べる方法をとるものですが、こちらの岩組は全然別なので、大変驚きました。このような岩組は、普通では持て余してしまって、とてもまとめ切れないものです。」と述べている。事実、萩の道に立ち、思いをひそめて眺めると、そこには、さらに深い味わいを見出すことができる。大変な時間と労力をかけて配置した岩組を、さりげなく萩で隠す構成にした教祖の感覚は、専門家さえも驚かさずにはおかなかったのである。
「何時も言う通り私は偽<いつわ>りを非常に嫌う結果、装ったり、道具立てをしたりする事は、一種の偽りであり、衒いでもあると思うと共に、他からみても一種の嫌味である。」
と言った教祖の心が、この岩組の中に、そしてまた、ひとり萩の道ばかりでなく、箱根、熱海の神苑の随所に込められているのである。