『神人合一』″おひかり″御入霊

 今書いている「お守」に対する原稿ですが、この次あたりに読ませますが、私かお守を書く場合に、丁度半紙大の紙に「光」という字を書くのですが、一枚書くのに七秒です。この間は急ぎだというので、五百枚を五十分で書きました。それで普通宗教でお守などを書くというと、もう斎戒沐浴して、羽織袴でチャンと御神前にぬかづいてお願いして書くものです。

 ところが私は、今時は暑いから上は裸です。まさか褌一つではみっともないからしませんが、それから私は、ただ「光」を書くだけでは退屈でいけませんから、必ずラジオを問きながらやるのです。それで早いですから三人がかりで手伝っているのです。そして時によると左の手に煙草をくわえて、右の手で書いたりしています。だからお守を作っているとは甚だ思えません。

 それで書き上がって、たたんで、三十枚を一束にして、それに私か霊を入れるのですが、この霊を入れるのは厄介なのです。割に力は全然入れないのですが、やはり相当に疲れます。だからこれは、一度に沢山入れるわけにはゆきません。一回霊を入れるのに、丁度三包、九十体づつやるのに、一つに五分ですから十五分くらいかかります。それで丁度一ぱいです。それ以上は疲れます。しかしそれだけでレントゲン以上の力が出るのですから、ちょっと理屈はつかないくらいなものです。

 それで今までは、そういう場合に神様にお願いしたりお祈りするのは、つまり神様と人間の方が離れてますから、どうしてもそうしなければならないのです。

 ところが私は、自分の腹の中に神様が居るから、私かこうやっているという事は、私の体、腹に御座る神様が、道具として使っているのです。ですからそういう場合の私の腕というものは、やっぱり筆と同じようなものです。筆と墨のもう一つ繋いだ元の方が腕みたいなものです。そこで他の余計な事は何も必要がないので、ただ書きさえすれば、腕を通して紙に。″光″が入って行くのです。

 そういうようなわけですから、今までの宗教の教祖という人達がやった事とは、全然違うわけです。ですからキリストにしろ、天の父、つまりエホバとか、ゼウスとか、神様にいろいろ憐みを乞うというか、そういう形式をしますが、私はそういう必要はありません。

 昔から言う「神人合一」です。神と人と別に分離していないで、一致しているのです。ですからそういった形式はしないのです。私は神様を拝まないという事は、そういうわけです。拝むのでなくて、拝ませるのです。

 今までこういう事を言わなかったのは、誤解するからです。あいつは誇大妄想狂で、頭がおかしいのだと言います。よく知っている信者の人はよいですが、第三者としては、あまりに超越しているから、誤解を受けるのです。又これは信者になってチャンとなれば分かりますから。それであんまり言わないのです。けれども、説明してみれば今のようなわけです。

「御教え集24号」 昭和23年07月17日

御教え集