ごく初期のころから熱心な映画ファンであった教祖は、ある時期に映画監督になろうと思ったことがあった。しかし、当時の日本映画はまだ、技術的にも未熟な揺籃期〈ようらんき〉にあり、優れた作品が作り出される土壌がなかった。そこで映画事業を興して西洋の優れた作品を中心に、その普及を図ろうと、映画館の経営を計画し、時を待っていたのである。すると、映画館建設の権利は手に入れたけれども、資金が足りなくて困っているという人に会った。岡田商店の店主として成功し、繁盛していた大正二年(一九一三年)一〇月のことである。何度か話し合い、検討の結果、隅田川の河口にある永代橋の近くに、その橋の名をとって「永代活動写真株式会社」という、資本金二万五〇〇〇円の会社を設立することとなった。当初は共同経営ということであったが、教祖が資本金の半分を負担したので、専務取締役となり、土地も入手し、いよいよ建築に取りかかったのである。当時のことを、教祖はつぎのように記している。
「全然今まで興行などには無経験なので、仲々容易ではないが、しかし私は何も経験だと思って、苦心惨澹、とも角、小さいながらも一つの映画館を作り上げ、ここに開館する事 となったのである。
ところがその頃のいわゆる活動写真館は、今日と異なって弁士や楽隊、チョボ*などを雇はねばならず、又町内の顔役への附届けだとか、何やかや別世界の連中を相手にするのであるから、その気苦労は生易しいものではない。しかも その社会の裏面など全然知らない素人の青二歳が、急に飛込んだのだから大変だ、私は甘く見られ、舐められてどうしていいか分らなかったのである。」
*三味線弾き
しかし、不思議なことに、この映画館関係の用事の起きた時には、判でおしたように発熱し、不快感に悩まされるということが、最初からずっと続いていたのであった。だが、教祖は我慢しいしい出かけていった。いよいよ建物はめでたく完成し、永代館と命名して、開館式をすることになった。その時、区長や町長をはじめ、町の有力者など、多くの人々を来賓として招待しているので、専務取締役である教祖は、当然その接待にあたる手筈になっていた。
ところが、開館式当日、今度は朝から四〇度の高熱が出て、とうてい出席できる状態ではなかった。そこでやむを得ず代理を頼んで、なんとか開館式の行事を済ませたのである。しかも、開館後も、映画館へ行くと、急に腰が痛くなって、手摺につかまり、這うようにしてやっと階段を上る始末である。しかし、自宅へ帰ると、苦痛が和らぎ、快方へ向かう、といった不思議なことがずっと続いたのであった。
これはあまりにもおかしいというので、人の勧めるままに、ある行者にみてもらった。ところが、舞台の真申あたりに、うらめしげな面相をした死人の顔が見えるとのことである。教祖はそれを開いて薄気味悪く思ったが、無神論を奉ずるころのことであったから、行者の言葉をそのまま信ずることはできなかった。しかし、その後も事実不思議なことが続くので、とうとうこの事業に対する熱が冷めて、やがて映画館の経営から手を引くことにした。すると、それから病気は日一日と快方に向かったのである。
教祖が、いつごろ、どのような形で映画館の経営から手を引くようになったか、その時期や経緯については明瞭ではない。しかし、ともかくも、そのころ、資本金の半分にあたる一万二〇〇〇余円という莫大な金額を出資し、みずから専務となって経営にあたったということは、そのまま、教祖の映画に対する愛好熱が並々ならぬものであったことを現わすとともに、時代を先駆ける新しい文化的営みに対する強い関心を裏付けるものということができよう。
ちなみに、当時の株券の一部が現存しており、その日付からみて、永代館は大正七年(一九一八年)一月まで営業を続けたことが知られるのである。