何をもって江戸っ子とするか、その条件をめぐつてこれを厳密に定義付けるとなると、いろいろむずかしい。たとえば、江戸っ子は日本橋の本町に生まれ、乳母に大事に育てられた上流の町人である──などという説がある。また日本橋から新橋までの界隈に住む人間という主張もある。
しかし、一般にはそれほどではなく、三代以上にわたって江戸に住んでいるものは、みずから江戸っ子と称したようである。先祖から代々江戸の下町浅草に住まっていたので、教祖自身も江戸っ子をもって任じていた。
いつもあるがままに振る舞い、通常は誰に対しても特別に堅苦しい言葉づかいをすることもなく、興が乗れば、多少巻舌になって、威勢よく早口に話したりしたので、誰いうとなく「べらんめえ教祖」と人は呼んだが、これに対し、むしろ「わが意を得たり」という態度であった。教祖の日常には、このような江戸っ子的なものがいろいろと目に付いた。
* 舌先を巻くようにして、勢いよく早口にいう口調<くちよう>
**江戸の下町の、おもに職人たちの間に用いられた威勢のよい、荒っぽい口調。「べらぼうめえ」の訛りと言われる
自分自身が江戸っ子であり、教祖とも親交のあった建築家・吉田五十八は、教祖の江戸っ子ぶりを評して、つぎのように話している。
「教祖は江戸っ子のいい面をもっていました。江戸っ子というのは、たいていあきらめがいいんですが、教祖はあきらめない。それどころか、前へどんどん進んでいくところがありました。こういうことは、普通の江戸っ子にはないところです。そして教祖は、ザックバランで、押し付けがましいことが嫌いでした。これも江戸っ子の一つの面で、自分の偉さを押し付ける、あるいは偉ぶるなどということはいっさいありませんでした。これは宗教家としてなかなかできないことでしょう。ですから、庶民的で、権力を笠に着る人を嫌いました。これも江戸っ子の証拠です。風呂から上がって、浴衣に巻き帯の格好など、どう見たって教祖らしくありません。普通なら、もっともったいぶるでしょう。
それから、あのくらい、ものごとを即決する人は少ないでしょう。美術品を買う時も、普通の人だったら、こわくてあんなに早くはとても決められないものです。ですから、グズグズしていることが嫌いでした。しゃべり方も、モソモソしてるのなんか嫌いでした。まどろっこしくて、聞いていられないのでしょう。したがって、江戸っ子の短気で、面倒臭がり屋のところもありました。淡白なところもあったが、美術に関しては、ひとつの執念をもっておられた。こういう粘っこさだけは、江戸っ子的でなかったと思います。
だいたい、江戸っ子というのは、宗教家には向かないもんです。今までの宗教家をみても、たいてい地方の出です。それなのに、教祖は江戸っ子で、しかも下町のゴミゴミしたところに生まれて、そしてあれだけの宗教家になったというのは、非常に異数のことだと私は思っています。」
教祖の誕生地・浅草の隣りの上野に、加賀百万石・前田家の菩提寺の広徳寺があるが、その山門が大変立派だったことから、教祖の少年時代、「いいもん(門)は広徳寺」という言葉がはやっていたようである。これは、よく言われる「その手は桑名の焼き蛤」などと相通ずる一種の語呂合わせであるが、何かのおり、
「それはいいもので……。」
と誰かがいったのに対して、教祖のロから、
「いいもんは広徳寺──。」
という言葉が返ってきたことがあった。
また、何か失敗した時、
「ついうっかりいたしまして……。」
などと詫びると、
「うっかりしないで、しっかりしなさい。」
と洒落で注意があったり、また、
「そういう時、江戸っ子だとね、『べらぼうめ!機転丸ドジくだしでも飲みゃがれ』と啖呵を切るんだよ。」
と笑いながら話すこともあった。これは“機転九という丸薬を飲んで、もっと機転のきく頭になれ、ドジくだしという下剤を飲んで、ドジ(失敗、しくじり)を踏まないようになれ”という意味である。機転とかドジとかを薬の名にもってきたところなどは、いかにも江戸っ子らしい洒落である。
*勢いよくまくし立てること
また、よく、
「今の人はみなボンヤリしている。江戸っ子式にツーといえば、カーと響くような人は少ない。」
と言って、打てば響くような受け答えを期待することはよくあった。
面会の時発表した「寸鉄」(きわめて短いが、人の胸を打つ警句)には江戸っ子的な歯切れのよいものが多く、某大新聞が教団誹謗の記事を掲載した時など、
「本数に喧嘩吹っかける奴は相手にならずばなるめえ。先祖の幡随院長兵衛に申訳ねえから。」
というのが作られた。
「火事とケンカは江戸の花」という言葉があり、江戸っ子は火事には非常に神経を使った。教祖もその例外ではなかった。そこで消防自動車のサイレンが聞こえると、すぐ電話局にその火事の状況を問い合わせて、教祖に報告することになっていたのである。
このように、江戸っ子的な面を多分にもっていた教祖であったが、昭和二四年(一九四九年)六月の面会の時、江戸っ子と伊勢屋<*>を比較して、
「『伊勢屋はいけない』って言ふんですよ。何故かっていへば、しみったれて、金を出すべき時にもケチ<<オオガエシ>>してるから。それから江戸ッ子の方は浅薄ですね。熱がなくてあっさりしてる。だから物事によっては江戸ッ子ぢゃいけません。然し、江戸ッ子には余り悪人はない様ですね。その反面、意気地なしで悪い事も出来ない様な人も多いですね。」
と、それぞれの長所、短所をあげ、
「まあ、結局、程々ですよ。」
と言って、極端に片寄らない、中庸の道をよしとしたのであった。
*江戸時代、伊勢の国(三重)出身の商人が、江戸で地位を得、繁盛した。彼らの繁盛のこつは倹約にあったことから、倹約を旨とする商人のことを一般に伊勢屋といった