青年時代の明主様は、体は非常にお弱くて病身でありましたが、精神の方には非常に激しいものがあったと思います。
そして、いかに独立自主であったかということは、その例として、明主様は非常にいい耳をしておられましたが、あの耳をお若い時に見込まれまして、人相を観る人から聞いたのでしょうか、浅草の大変大きな製粉業の方に娘さんがありまして、そこから、ぜひ、そのような大きな耳を持った方は将来必ず福運があるというわけで、お婿さんになってもらいたいと、やいやい言って来たのでありますが、明主様は考えるところがおありになったのでしょう、『自分は養子には行かない。一本立ちになって一家を成し、何かをやる』とおっしゃって、きっぱり断わられて、親戚の方々をがっかりさせたということです。お若い時から独立自主の精神が非常に強く、そういう話にも耳を傾けられなかったというところに、明主様の何か企画しておられたことがあったと思うのです。
そして、体はお弱かったけれども、後日一本立ちになられた時、広く見聞を求めて講演会などに行かれたり、また本も読まれたり、哲学書を研究されたりしまして、人間として正しく成功するにはどうしたらよいかという、その秘訣を求めておられたと思うのです。
また、明主様は、社会の悪を非常に憎んでおられました。ですから、救世軍が社会のために非常にいいことをしていましたので、ご自分は無神論に近い考えでありましたが、社会のためにそんな善いことをしている救世軍ならということで、毎月相当の寄附金をなさっておられたのです。
で、救世軍の山室軍平氏(日本救世軍の至宝であった人)なども来まして、「あなたはどうしてクリスチャンでもないのに、こうして毎月寄附をして下さるのですか」と問われました。
明主様は、『あなたがたには社会のために善い行ないをしてもらっているから、それでさせてもらうのだ』とおっしゃいましたが、そういう大きな気持だったのです。
そして、社会の革正のためには〝どうしても新聞を発行しなければ″という気持を起こされまして、ひとつ新聞社をやってみようと言われ、人に勧められて株に手を出して、結局は失敗をなさったのですが、社会善化のためには、どんな時でもたたかうお気持がおありになったのです。
ですから、後年において、立派にやっておられた小間物の卸業を、惜しげもなく番頭たちに分けてやって、宗教へはいられたわけです。そして救世教の道を拓かれたのですが、お若い時分からすでにそうした気持がおありになって、当然この宗教を創められたのだと思います。