出入りの美術商

 そのころ、教祖のもとに出入りしていた美術商は数多くあったが、その中には水戸幸・吉田孝太郎、雅陶堂・瀬津伊之肋、飛来堂・山岡鉎兵衛、龍泉堂・繭山順吉ち、壺中居広田不孤斎の代理の横井周三など、業界を代表する錚々たる顔ぶれがあった。

 当初は、それぞれが手に入れた名品を持参させ、その中から選んで買うということであったが、やがて、美術商ごとに分担が決まってきた。すなわち、水戸幸と雅陶堂が茶道具、飛来堂が仏教美術、龍泉堂と壺中居が陶磁器類といった具合である。やがてこのほかに、浮世絵の金子孚水や本多春雄、日本画の荻原安之助、海外古美術の小長井重利といった人々も出入りするようになったのである。

 その中で、東京・丸善の美術部にいた山崎重久は、戦後早くから教祖の所へ美術品を納めていたが、昭和二五年(一九五〇年)の法難事件後、教団にはいり、教祖の蒐集に奉仕したのであった。

 彼らの中には、一宗の教祖と聞いて、最初は警戒する者や、その鑑識眼を疑う者もあったが、ひとたび教祖に会い、話を聞くと、その批評は鋭く、しかも的確であり、美によせる並々ならぬ情熱に打たれ、たちまち心服してしまうのであった。教祖は美術商に対する心構えについて、

 「値切ってはいけない。褒美をあげるくらいでなければ、誰が一流のもの、最高のものを持ってくるものか。美術商に感謝するくらいでなければ駄目だ。」

と側近の奉仕者に話したことがあった。美術商に対して、

  「持った私の手が震えるような、そういう品物を持って来てほしい。」

とよく語ったことからもわかるように、教祖は飛び切りの一級品を求めたのである。本当にいいものなら、金額は問わなかった。こうした教祖の期待に応えるべく、美術商は名品が手にはいると、「これは何としても明主様の所へ納めなければ……。」と競って品物を持参した。

 このような心配りは、美術商に対してばかりではなかった。経済的な理由から、やむをえず大切な品を手放さざるをえなくなった売り主たちにも手厚い配慮をするのが常であった。

 昭和二七年(一九五二年)の秋、奈良の某寺から売りに出た「阿弥陀三尊仏」(中央に位置する主尊とその左右に脇侍する二仏の総称)を買い入れた時のことである。仏像がトラックで運ばれて来て、無事箱根に到着すると、教祖はさっそく仮安置された萩の家に出向いた。そして長い年月を信仰に守られてきた仏に村し敬虔な態度で接するとともに、その尊い美しさに、深い喜びを示したのであった。その様子を見て、交渉にあたった山崎は、 
 「五〇万まけてもらいました。」
と報告した。しかし教祖は、
 「まけてもらってはいけない。まして寺の物をまけさせちゃいけない。」
と断固として言う。山崎は不服であった。せっかく努力したのに・・という気持ちが強かった。
 「そうですか。でも先方は納得したんですが……。」
と答えたが、教祖は五〇万円を山崎の前に置いて、
 「今から寺へこれを持って行きなさい。」
と言う。新幹線もまだない当時のこと、その日に奈良から帰ってきたばかりの山崎は疲れてもいたので、
 「では、二、三日のうちに持って行きます。」
と言うと、
 「いや、今夜の夜行で行きなさい。」
となおも断固たる調子で言った。その信念に屈した山崎は、その日の夜行でふたたび奈良へ向かったのである。山崎の話を聞いた住職は、教祖の心に深く感じ入るばかりであった。そして、
 「これをすべていただくわけにはいかない。」
と、その中の幾ばくかを収め、残りをふたたび山崎に託したのであった。

 そのころに出入りした一人、金子孚水は元来、美術の研究者であり、浮世絵の鑑定にかけては右に出る者がいないと言われたほどの権威者であった。昭和二七年二九五二年)まだ教祖を知るにいたる前のこと、金子の友人であった某美術商がたずねて来て助力を求めた。それというのも、いつも持参する美術品によいものがないので、教祖から、もう来るには及ばないと言い渡されてしまったからである。それを聞いて金子は気の毒に思い、手持ちの中から錦絵の創始者として知られる鈴木春信の名作「萩の玉川」を渡して、これを届けるようにと言った。美術商はさっそくそれを持って教祖の所へ来た。するとその版画を見た教祖は、

 「これは君の眼で選んだものではないでしょう。この品を持たせた人を連れてきなさい。」

と言った。そこで驚いた美術商が一部始終を教祖に話し、またこのことを金子に報告したことから、金子は教祖と知り合うことになったのである。

 箱根に教祖をたずねた金子は神山荘で大変な歓待を受け、非常に心温まるものを覚えた。教祖は初対面の金子に、日本の美術、とくに浮世絵について、情熱をもって語り、自己の理想を述べた。金子はこの時、一度会っただけで教祖の美に対する並々ならない情熱と度量の大きさに魅了されてしまったのである。

 当時、意に満たぬことのあった金子は、酒で悩みを忘れようとして毎日浴びるほど飲み、荒れた生活を送っていたという。このことを知った教祖はある日、金子に、

   「酒をやめるなら、二〇年間の生命の保証をしてあげよう。」

と言った。すると金子はその一言で、あれほど好きであった酒をぷっつりと絶ってしまったのである。このことは知り合いの美術商の間で大きな評判となった。教祖の言う通り、金子は長寿に恵まれ、昭和五三年(一九七八年)、九〇歳で没するまで浮世絵一筋に打ち込んだのである。
このほかにも美術に関する緑で出入りのあった研究家や美術商たちは、いずれも一様に、教祖の人格の大きさに心酔している。

 ある時、橋本凝胤はつぎのように話したことがある。
 「岡田さんはお茶席などにお出になっても、ご自分はけっして正客にはなられなかったそうですが、それでいて有名な瀬津伊之助さん、水戸幸(吉田孝太郎)さんたちが草履取りをしているのですから、岡田さんも大したものです。あの人たちぐらいになれば、相手が大金持ちであるとか、よく買ってくれる上得意であるからといって、そうそう頭を下げる人ではないはずです。茶席ではなかなかいばっているんですが、それが岡田さんには草履取りなのですから、お偉い方だなあと思いました。」