「大日本観音会」解散と療術禁止令

 はたせるかな、「大日本健康協会」の発会後間もなく、官憲の干渉が強化された。教祖の『日記』には、六月三〇日に特高警察の島という人物が来たと記録されている。

 警察当局が何よりも懸念していたのは、まだ小さな組織ながら急速に成長を続けていた「大日本観音会」が、やがていつの日か、国策上不都合な教団に成長するのではないかということであった。それゆえ当局は、このような団体はその芽のうちにつみとり、漬してしまおうと、何回にもわたって強迫的な干渉を行なってきたのである。

 こうして「大日本健康協会」の発会からわずか一月半しかたたない七月一日、教祖は断腸の思いで、「大日本観音会」を自発的に解散せぎるを得なくなった。この日、玉川郷において行なわれた月次祭は、「大日本観音会」最後の祭典となったのである。『日記』にはただ一首、

  月次の祭典の後観音会解散の理由詳しく弁ぜり

とのみ記されている。周囲の非難、中傷や生活の不安と戦いながら、十余年の研讃、求道の未に立教を宣言し、その活動もようやく軌道に乗り始めた矢先に、みずからその解散をしなければならなかった教祖の胸中はいかばかりであったろうか。

 もとより教祖は、日本の将来について明確な見通しをもっていた。昭和九年(一九三四年)一月一七日、立教をさかのぼること一年ほど前に教祖はある席上、やがて起こるべき日本と世界との戦争などについて話をしている。もちろん当時このようなことを口外するのは危険極まりないことであり、この話も、教祖のもとによく出入りしていた弟子を中心とする小グループに対してのみ語ったものである。そして、「大日本観音会」の解散ということも、当然この見通しに立ってとられた措置であったろう。

 しかし厳しい時代の中で、教祖はただいたずらに手をこまねいていたのではなかった。宗教活動としての「大日本観音会」をみずからの手によって解散したとはいっても、治療の形を取って活動を続ける「大日本催 康協会」に、すべての情熱を注ぎ込んでいったのである。そして「大日本観音会」解散から間もない七月六日を皮切りに、玉川郷を会場として岡田式療病術の「夏季特別講習会」というものが開かれた。この講習会は一二回にわたる集中講座の形を取り、ほぼ隔日に行なわれている。その時参加した五、六〇名の治療士に対して、教祖みずから全講義を担当、西洋医学を批判し、その誤りをついたのであった。

 しかし当局の締め付けはあくまでも厳しく執拗であった。講習会の開催に神経をとがらせた警視庁は、七月二八日、なんの予告もなく突然に「療術行為禁止の命令」を出したのであった。
この禁止令は事実上「大日本健康協会」そのものの解散を意味していた。『日記』にはつぎの二首が記されている。

  青天のへキレキの如警視庁より療術禁止の命令来りぬ

  命令の理由は更に解らざり其虐政の嘆かれるかも