「大日本健康協会」発会

 昭和一一年(一九三六年)二月二六日、東京地方は三〇年ぶりの大雪であった。その朝早く、二二人の青年将校に率いられた下士官と兵、合わせて千四百余名が政府要人を急襲し、内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清、教育総監・渡辺錠太郎を殺害、侍従長・鈴木貫太郎に重傷を負わせ、また警視庁や朝日新聞社も襲撃するという大事件が起きた。この時、首相の岡田啓介は危うく難を免れたが、代わりに秘書官が殺されてしまった。これが世に言われる二・二六事件で、反乱軍は、首相官邸などがある麹町区永田町一帯を占拠したのである。

 麹町の観音会東京本部は、反乱軍からまさに目と鼻の先にあり、この朝、教祖はいったん本部へ行ったものの、ものものしい気配を感じて昼前に玉川へ帰った。その帰りぎわ、係の者に、
「今日は面白くないから、ご神体を巻きなさい。もしものことがあったら、畳を何校も立てて押入れにはいっていなさい。くわしいことはあとでわかるから──。」 
と言い置いたという。翌二七日の 『日記』につぎのように記されている。

 本部界隈武装兵士の密集しさながら戦時の如くなりける

 二・二六事件の首謀者である青年将校たちは「わが国は大きな危機に直面しているのに、政府高官や財閥は私利私欲に走って、何ら省みるところがない。一日も早くこれを一新すべきである。」と主張し、「尊王討奸」の旗印を掲<かか>げてクーデター(政権を取るために武力に訴えること)を敢行したが、こうした動きの背後には陸軍部内の対立、抗争が潜んでいたのである。いずれにしても、この事件が日本の政治に与えた影響は大きい。このあと軍部の発言権は一段と強められ、その強大な力は、何ものをもってしても押えることのできないほどに成長していくのである。

 東京帝国大学(後の東京大学)で憲法を講じていた美濃部達吉の「天皇機関説」が軍部や右翼の攻撃を受けたのは昭和一〇年(一九三五年)の春のことであり、また、日本とヒットラー政権下のドイツとの間に「日独防共協定」が締結されたのは翌一一年(一九三六年)の秋であったが、これらは当時の時代を表徴する出来事であった。そして、軍国主義化が進むにつれて、思想統制もいよいよ厳しくなり、とくに、共産主義と並んで宗教団体に対する取り締まりが一段と強化されたのである。

 前にも記したように、昭和一〇年(一九三五年)一二月八日の「大本」第二次弾圧、さらには、昭和一一年(一九三六年)九月と、一二年(一九三七年)四月、二度にわたっての「ひとのみち教団」の弾圧、また一三年(一九三八年)一一月には「てんりほんみち」に対する第二次の弾圧が行なわれたが、この時、「ひとのみち」、「てんりほんみち」両教団とも「大本」同様、教主や幹部は投獄され、厳しい拷問を受け、昭和二〇年(一九四五年)の終戦になってようやく自由の身となったのである。昭和一一年(一九三六年)一月の新聞には、まだ裁判も行なわれないうちから「大本・出口王仁三郎は死刑か無期懲役か。」などという、意図的に世論を煽動するような記事が掲載されたほどであった。かつて大本の宣伝使であった教祖は、すでに大本を脱会していて関係がないと認められたものの、「大本の残党」という疑惑は常に付きまとい、官憲の監視の目は一段と厳しくなったのである。

 昭和一一年(一九三六年)三月一九日、埼玉県の大宮警察署から警部二名が玉川郷に訪れたのを皮切りに、五月二七日には教祖は玉川警察署に呼ばれ、『東方の光』を改題して発行した『観音の光』について、数時間にわたり事情聴取を受けた。そして、さらに翌六月一日にも出頭を命じられている。

 昭和一〇年(一九三五年)元旦の「大日本観音会」発会以来、教祖は宗教と医術、信仰と治療という二つの部門を並立させながら進めてきたが、このような時代の趨勢の中で、昭和二年(一九三六年)五月一五日、玉川郷において「大日本健康協会」の発会式が執り行なわれた。この協会の創立は、医術、治療の面を宗教から分離し、その独立を図ろうとしたものであった。
発会式の席上、教祖は設立の目的について、所属する宗派のいかんにかかわらず、また、宗教を信じない人にも広く救済の道を開くために「大日本健康協会」を発足したと述べている。
 しかし、こうした神業上の意味合いに加えて、協会設立には、宗教活動を思想統制にからめて抑圧しようとする、当時の峻厳な官憲の取り締<し>まりに対処するという目的があったのである。

 「大日本健康協会」は「大日本観音会東京本部」に仮本部を置き、入会金五〇銭、会費は月額三〇銭と決められた。発会時の会員数は二二九名で、発会式のこの日、教祖が口述した『明日の医術』という小冊子が発行された。これは浄霊という神与の救済力を、できる限り宗教的表現を避け、科学的、実証的な側面から解説したものである。

 少し遅れて翌六月一五日に機関誌『健康』第一号が発行された。これには教祖が「仁斎」の号を用いて「発刊の辞」と「健康日本の建設」という論文を寄せている。