第二次・玉川事件

 このように、教祖みずからの働きとともに弟子たちの活躍によって、岡田式指圧療法はますます発展し、浄霊を受ける人々は各地で増加の一途をたどっていった。ことに本部の宝山荘では、昭和一五年(一九四〇年)の夏から秋にかけて、番号札を出さねばならないほど多くの人が訪れた。しかし、このことがまたしても当局を刺激することとなり、その年の一〇月ごろから警察の干渉がふたたび始まったのである。

 ちょうどそのころは、日本の国全体が太平洋戟争への道をただまっしぐらに進んでいるさなかであった。昭和一五年(一九四〇年)の九月から「隣り組」制度が作られ、社会の末端まで当局が掌握のできる体制が整った。同じ九月には日独伊三国同盟が成立、翌一〇月には時の首相・ 近衛文麿を総裁とする「大政翼賛会」が発足し、日本のファシズム体制が強化されていったのである。

 宝山荘に警察官が出入りするようになると、日に日に来訪者が減り始め、午後にはもう一人の人も来ないという日が続いた。そのようになっても、ひっそりと静まり返った浄霊室の中で、教祖はただ一人、夕方まで坐り続けるのであった。その姿からは、執拗な弾圧に対する教祖のやるかたのない思いがうかがわれたのである。

 二か月ほどたった一一月二八日のことである。二人の刑事が突然宝山荘へ来て教祖に同行を求めた。そして玉川警察署へ着くと、いきなり、
 「君は医師法違反をやったね。」
と言うだけで、そのまま留置場へ入れられてしまった。三日目になってようやく、取り調べ官は教祖の尋問を始めた。
 「君はある病人に対し、医者へ行かなくても自分の方で治ると言った覚えがあるだろう。」
と言う。その調子には、初めから医師法違反に持ち込もうとする意図が明らかであった。教祖がその事実を認めると、係官は、
 「その言葉が立派に医師法違反ではないか。」
と言う。教祖は事実をありのままに述べたのであり、その程度のことはどの療術師でも言うことなので唖然としていると、係官はさらに言葉を継いで、
 「それは小規模でやっている者は大目に見るが、君のように堂々たる門戸を構えてやっている以上、社会に害を及ぼすことは大きいと見るから、看過するわけにはいかない。」
と言うのである。主任の態度から営業禁止に持ち込まれることを推察した教祖は、先手を打って、
 「そんなことで医療妨害の罪に問われるとしたら、とうてい持続してやることはできないから、今日限り廃業します。」
とみずから宣言をしたのであった。

 取り調べ官は先手を打たれた悔しさからか、しばらくたったある日、ふたたび教祖に出頭を求め、「一生涯、療術行為をしない。」という誓約書を書くように求めてきた。教祖は無念の思いを押えながら、一二月二四日に廃業届の申請書とともに誓約書を提出したのである。

しかし、教祖に対する官憲の圧迫や干渉がこれで終止符を打ったわけではなかった。刑事がやって来て垣根の外から見張っていることも多く、教祖のもとに集まる弟子たちも、目立たぬように、あまり多人数で出入りすることは避けるなど、当局を刺激しないように気を配ったのである。しかし、それにもかかわらず官憲の疑心は執拗に続いた。

 教祖が廃業届を出した昭和一五年(一九四〇年)、堀内照子は政治家・後藤文夫の妻を宝山荘へ案内した。後藤文夫は、岡田啓介内閣の内務大臣を勤め、昭和一一年(一九三六年)、二・二六事件で岡田首相が退陣した時、臨時首相代理を勤めた。

 堀内から話を聞き、教祖に会った後藤夫人は浄霊を受けることを希望し、宝山荘へ通い始め、廃業届を出した後もひそかに宝山荘をたずねた。おりから張り込みを続けていた刑事は、毎晩のようにやってくる同夫人を怪しみ、ついにある日、渋谷に近い並木橋の後藤邸まで尾行をしたのであった。すると門の所に警官が立ち番をしている。
 「なるほど、これは怪しい人物に違いない。自宅まで偵察されている。」
と件の刑事は一人うなずいて、門の所で立ち番をしている仲間に、
 「今この家にはいっていったのは誰だ。」
と尋ねた。すると相手は大変な剣幕で言うのである。
 「君はなんと無札なことを言うのか。あの方は後藤閣下の奥様だぞ。」

 意外な事実にぴっくり仰天した刑事は、平謝りに謝り、這う這うの体で逃げ帰った。

 このような警察の目は、宝山荘ばかりでなく、それぞれ治療院の名を掲<げ、指圧師の名目で活動を続けていた弟子たちのまわりにも、多かれ少なかれ同じような網が張りめぐらされていた。私服の刑事が排御し、浄霊を受けて帰って行く人々を呼び止めては尋問し、少しでも付け入る隙があれば、治療師の出頭を求め詰問するということが行なわれたのであった。  厳しい官憲の圧迫にも耐えながら、ただ一筋に教祖を信じ、教祖のためにという、ひたむきな思いで日夜努力してきた弟子たちは、教祖が警察に留置され、さらに療術廃業を宣告したと聞いて、拭い切れない憤懣と、言いしれぬ不安にかられたのであった。教祖の無事な姿を自分の目で確かめて安心したいという思いと、また、これからどのようにすればいいのか、その指針を得たいという願いもあり、ともすれば動揺する心を押えつつ、一同が宝山荘へ参集したのは、玉川署での勾留の解かれた翌日、昭和一五年(一九四〇年)一二月一日のことであった。  その日教祖は、前日まで取り調べを受けていた人とは思えな心力強い口調で、一二月一日を期して療術を廃業、第一線の業務を弟子に一任することを告げるとともに、その意味するところを語ったのである。教祖はその時のことについてつぎのように書いている。  「それはむしろ霊的にみて、一段階上った事になるので内心は喜ばしく思ったのである。というのはそれまで治療という極限されたいはば、第一線に於る体当り的兵隊の仕事であったからでもある。」  一同は教祖のこの話を聞き、心の霧を吹き払われる思いになった。大きな災厄と思った弾圧が、じつは、神業が新たな段階へ飛躍する神定めの経綸であるとわかったからである。  参集した人々は等しく、使命遂行の決意を新たにし、聖業を担う使命の大きさに身の引き締まる思いがしたのであった。  しかし、教祖自身、廃業届を出しはしたものの、その名声は有力者の間に広まっていたので、政界人、財界人や軍人など、上層階級の人々が宝山荘へ浄霊を求めて来るようになった。その中には、前述の後藤文夫夫人のほか、海軍大将・末次信正夫人などがあったが、活動を禁じられている教祖は、応ずることができないので、  「今は廃業して治療はできないことになっているから、ぜひ治療してもらいたければ、警視庁の許可を得なさい。そうすればいつでもやってあげましょう。」 と断わったのである。そこでそれらの人々は警視庁に許可を受けに行った。同庁では相手が当時の有力者ばかりなので、申請を拒むわけにもいかず困惑したあげく、教祖に「療術行為届」を出すよう伝えてきた。それは昭和一六年(一九四一年)のことである。そこで、教祖は、やむを得ない人、特別の人に限って、という条件付きで浄霊をすることとなったのである。  その後、終戦までの間に教祖のもとを訪れ、浄霊を受けた人々の中には、元文部大臣の平生釟三郎、日本軍大本営の報道担当者として著名であった海軍大佐(当時)・平出英夫、日本興業銀行総裁・河上弘一、朝鮮の王族の李健、李健など、戦争中の日本における錚々たる顔ぶれがあった。