第一次・玉川事件

 大宮警察署では翌日釈放されたが、すぐ続いて、今度は地元の玉川警察署から医療妨害のかどで教祖と清水が呼び出しを受けた。清水はその日に帰されたが、教祖は八月一〇日から二〇日まで、一一日間留置され取り調べを受けた。この医療妨害とは表向きの理由にすぎず、じつのところは大本との関係を調べるための留置であった。玉川郷は家宅捜索<かたくそうさく>を受け、大本や観音会に関する図書などを押収されたのである。これが第一次主川事件と呼ばれる出来事である。

 この時は、教祖ばかりでなく中島一斎も留置され、取り調べを受けた。妻・暉世子は教祖が検挙されたという電話を受けると、
取るものも取りあえずただちに玉川に駆けつけた。ところが先方へ着くと、そこには中島検挙の知らせが届いていた。教祖の妻・よ志から、
 「こっちはいいから、お宅の子供がかわいそうだから早く帰ってやりなさい。」
と温かい言葉をかけられ、暉世子は、駆けつけたその足で、ふたたび家へ帰った。家宅捜索で乱雑にされた屋内は家人の手によって一応片付けられてはいたものの、居間、客間に掛けられていた額から教祖の書は無残にはぎ取られ、また、食器棚から、箪笥の中の着物一枚一枚にいたるまで、しらみつぶしに捜索を受けて、大本関係の書籍などを、証拠物件として目と鼻の先の中野警察署まで大八車(八人の出す力になり代わるという意味から比較的大きな二輪の荷車をさした)に積んで行ったのである。この時、中島一斎の留置は八日間に及んだ。

 「大日本観音会」を自発的に解散した直後、療術行為禁止の命令を受け、教祖の収入の道はまったく途絶えてしまった。大正八年(一九一九年)以来次々に重ねてきた借金はまだ返済の途中にあり、多くの奉仕者をかかえて前途は暗澹たるものであった。教祖はやむをえず、大森支部として使っていた松風荘を六〇〇〇円で売却して当座の生活費にあてたのである。

 当時、大森支部長であった岡庭真次郎は、八月一〇日の家宅捜索の時、玉川署員から、「近いうちに、井上と一緒に来てもらう予定だから、待っているように。」と言われ、いつ留置されるかと心が落ち着かなかった。そのうえ、松風荘を売却した後は支部がなくなってしまったので、玉川郷へ移り、庭仕事などの雑用に従事するほかはなかった。

 その他の治療士も同様で、表立ったことは何もできなかった。ただ盛岡の竹内だけは、医師という立場を生かして、自宅において、竹内式指圧療法の名により、日本医術の治療院を開設し、活発な活動を進めることができた。前にも述べたように、竹内は教祖の薫陶を受けた東京の治療士を招いて浄霊を広めた。この時招かれた人々はその後、東北の各地に分散して浄霊による救いの輪を広げていったのである。