昭和一一年(一九三六年)の秋のことである。当時、郷里の盛岡に帰って神業に協力していた医師の竹内慶治郎は陸軍中将・八角<やすみ>三郎を荒屋に紹介した。八角の娘の病気を治してほしいというのである。荒屋はこのような有力者がすがってくる裏には何か神秘があるに違いないと考え、八角に教祖のもとをたずねるよう勧めた。八角はさっそく妻と娘を連れて宝山荘を訪れ、教祖に面会した。そして翌日から娘は夫人に付き添われて毎日、宝山荘に通うようになり、病状は日に日に快方に向かっていった。
ところが、このことが警察に知れ、八角夫人は始末書を取られた。娘が日増しに治癒していく事実を見ている八角は憤慨し、内務省衛生局をはじめ、警視総監などに折衝して、教祖の治療禁止を解除すべく大いに尽力をしたのであった。
その後、八角の知人で後に農林大臣となった田子一民<たごいちみん>の力添<ちからぞ>えもあって、昭和一二年(一九三七年)一〇月二二日、治療禁止令が解<と>けたのである。
永らくの治療禁止もやうやくに解禁されたり一年余にて
こうして教祖は、じつに一年三か月ぶりにしてようやく自由に治療ができる身となった。しかしふたたび活動を開始するにあたって、警察は取り締まる方途を明確にするためか、宗教か療術行為か、はっきりとそのどちらかにするように要求してきた。そこで、治療で立つことを決心した教祖は、「岡田式指圧療法」の名のもとに活動を再開したのであった。このころ「大日本観音会」時代の信者はほとんど離散していたので、まったく新しい出発をしたといってもよい状態であった。