地上天国という言葉は、何たる美しい響きであろう。この言葉ほど光明と希望を与えるものはあるまい。しかるに多くの者は、地上天国などという事は実現の可能性のない夢でしかないと思うであろうが、私は必ずその実現を確信、否実現に近づきつつある事を認識するのである。ナザレの聖者キリストが、「汝等悔改めよ、天国は近づけり」と言った一大獅子吼<いちだいししく>は、何の為であろうかを深く考えてみなくてはならない。その教えが全世界の大半を教化し今日のごとく大を成したところの、立教の主たるキリストが、確実性のない空言<くうげん>をされ給う筈がないと私は思うのである。しからば地上天国とはいかなるものであろうかという事は、何人<なんぴと>も知りたいところであろう。私は今それを想像して書いてみよう。
地上天国とは、端的に言えば「幸福者の世界」である。それは、病気、貧乏、争闘のない世界で、文化の最も高い世界である。しからば今日人類が苦悩に喘<あえ>ぎつつある病貧争に満ちたこの世界を、いかにして天国化するかという大問題こそ、我々に課せられたる一大懸案であろう。しかも右の三大災厄の主原因こそは病気そのものである以上、まず病気を絶無ならしむべき方法が発見されなければならない。次は貧乏であるが、これもその原因が病気が第一であり、誤れる思想と政治の貧困、社会組織の不備等も第二の原因であろう。次に争闘を好む思想であるが、これは人類が未だ野蛮の域を脱し切れない事が原因である。しからばこの三大災厄をいかにして除去すべきやということが、根本問題であるが、この問題解決に私は自信を得たのであって、最も簡単なる事実をここに説き明かすのである。
本教団に入信し、教化さるるに従い、心身の浄化が行われ、真の健康者たり得ると共に、貧乏からは漸次開放され、尚闘争を嫌忌するに至る事は不思議として誰も驚くのである。そのほとんどの信徒は年一年幸福者に近づきつつある事は、無数の事実が証明している。
私は他の欠点を挙ぐる事を好まないが、いささか左記のごとき事実を挙げる事を許されたい。それは信仰をしつつ難病に呻吟<しんぎん>し、貧困に苦しみながら、満足し、喜んでいるものがあるが、なるほどこれらも無信仰者よりは精神的に救われてはいるが、それは霊だけ救われて体は救われていないのである。すなわち半分だけ救われている訳で、真に救われるという事は、霊肉共に救われなくてはならない。健康者となり、貧困から脱却し、一家歓喜に浸る生活にならなくてはならない。しかるに今日までのあらゆる救いは精神を救う力はあるが、肉体まで救う力はなかった訳で、止むを得ず「信仰とは精神のみ救わるべきもの」とされて来たのであろう。
その例として宗教家がよく言う言葉に 「現当利益が目的の信仰は低級信仰である」と言うが、これもおかしな話である。何人といえども、現当利益を欲しない者は決してある筈がない。又病苦を訴える者に対し「人間は宜しく死生を超越せざるべからず」と言うが、これもいささかか変である。何となれば、いかなる人間といえども死生を超越するなどという事は実際上出来得るものではない。もし出来得れば、それは己を偽るのである。この事について私は沢庵禅師の一挿話を書いてみよう。
禅師が死に臨<のぞ>んだ時、周囲の者は「何か辞世<じせい>を書いて戴きたい」と紙と筆を捧げた。禅師は直ちに筆をとって「俺は死にたくない」と書いた。周囲の者は「禅師ほどの名僧がこのような事をお書きになる筈がない、何かの間違いであろう」と再び紙と筆を捧げた。すると今度は「俺はどうしても死にたくない」と書かれたとの話があるが、私はこの禅師の態度こそ実に偉いと思う。そのような場合大抵は「死生何ものぞ」というような事を書くであろうが、禅師は何等衒<てら>う事なくその心境を率直に表わした事は、普通の名僧では到底出来得ないところであると、私は感心したのである。
次に、世間よく人を救おうとする場合、自分が病貧争から抜け切らない境遇にありながら宣伝をする人があるが、これらもその心情は嘉<よみ>すべきも、実は本当のやり方ではない。何となれば、自分が救われて幸福者となっているから、他人の地獄的生活に喘<あえ>いでいる者を、自分と同じような幸福者たらしめんとして信仰を勧めるのである。それで相手が自分の幸福である状態を見て心が動く、宣伝効果百パーセントという訳である。私といえども、自分が幸福者の条件を具備しなければ宣伝する勇気は出なかったが、幸い神仏の御加護によって幸福者たり得るようになってから教えを説く気になったのである。
地上天国とは、幸福者の世界でありとすれば、幸福者が作られ、幸福者が聚<あつま>る所、地上天国の実相でなくて何であろう。