(12) 新生日本

聖なる地へ

 教祖は早くから信者に疎開するよう勧めたが、昭和一九年(一九四四年)にはいると、今度はみずから積極的に移転先を探すようになった。もちろん、これは単なる疎開ということではなかった。教祖が東京を離れるということには、神業上の …

神山荘と東山荘

 そうこうするうちに、よい出物の話が二つはいってきた。初めの一軒は心にかなわず、それではと案内された二軒目の家は、戦前、財界の重鎮、藤山雷太が建てた強羅の別荘である。強羅は、教祖がとりわけ愛し、大正末期のころ、貸し別荘に …

監視

 教祖が玉川から箱根、熱海へ移転してからも、官憲の目は執拗にその動向を追い続けた。戦争が終結し特高警察や憲兵などの監視体制が崩壊するまで、教祖 要注意人物、危険分子として扱われたのである。教祖が東山荘を入手すると、その情 …

終戦

 戦局はいよいよ激しさを増し、昭和二〇年(一九四五年)二月、アメリカ軍は硫黄島に上陸を開始し、一か月の死闘の後、ついにこの島を占領した。  一方、ヨーロッパ戦線においても、すでに昭和一八年(一九四三年)九月には、イタリア …

「日本観音教団」発足

 終戦後しばらくの間、神業は民間療法の形によって続けられていた。しかし、その後間もなく、アメリカ占領軍が、当時の日本の思想を調査し始めた。「日本浄化療法普及会」もその調査の対象となったが、その時調査に来たのはニコルスとい …

社会の見る眼

 教線は遼原の火のように全国に広がっていったが、必ずしも社会全般に理解され、快く迎えられたものではなかった。むしろ反対に批判され、反発され、あるいは攻撃の的とさえなった。発展が目覚ましければ目覚ましいだけに、一部の人々の …

C・I・Dの捜索

 投書による策謀は、昭和二四年(一九四九年)八月のC・I・D(進駐軍犯罪捜査課。なお、進駐軍とは、終戦後日本に駐留したアメリカ軍を中心とする連合軍。先の占領軍に同じ)による教団施設の家宅捜索となって現われた。  八月二五 …