(11) 雌伏一〇年

奇蹟の書画

 立教以来数年にわたり、教祖は布教の手本を示してきたのであったが、ようやくこのころには、教祖の教えを体し、布教のできる弟子たちが数多く育ってきていた。ちょうどこのような体制が整えられた時に教祖は第一線を退き、それまでみず …

「会食会」の名のもとに

 昭和一五年(一九四〇年)一二月二三日は教祖五八歳の誕生日であった。その日の『日記』にはつぎのような記事が記されている。  「誕生日にて東中野、日本閣へ招かる。吾とよし子の外計二十五人なり。新体制の食後、歌笑冠句等ありて …

家庭生活

 教祖は困難な時代の中にあって、その時その時に可能な最良の道を求めつつ神業を進めていったが、同時にまた、一家の家長として家族への心配りを忘れることはなかった。  子供たちに対しても、教祖みずから実行していることを教えるの …

自然農法

 昭和の初め、神示によって教祖は、新しい文明の創造こそ緊急の大事であり、しかもそのことがほかならぬ自分自身の使命であることを覚った。この覚りに基づいて、真っ先に手がけたのは「神示の健康法」であった。そして長期にわたる研究 …

鉱山経営

 教祖は一生の間に、さまぎまな事業を手がけたが、その一つに鉱山の経営があった。その着手は「大日本観音会」立教の年、昭和一〇年(一九三五年)の夏のことである。当時、浄霊によって病気を救われた人々の中に中根由紀子という女性が …

各地への旅行

 昭和一五年(一九四〇年)一二月、教祖五八回目の誕生祝いの時から、当局の執拗な干渉、弾圧を避けるため、宝山荘で会合することをやめ、その代わりとして「会食会」の名のもとに、ホテルや料亭で教祖の指導を仰ぐようになったこと、ま …

『明日の医術』発刊

 時代はさかのぼるが、昭和一五年(一九四〇年)一二月、第二次・玉川事件の発生によって、教祖はそれまで岡田式指圧療法の名のもとに続けていた布教活動をみずから断念した。  このため、神霊による治病救済力を授ける講習も、弟子た …

仮の姿の救済活動

 昭和一五年(一九四〇年)、第二次・玉川事件の後、それまで教祖が直接手を下していた講習やお守りの取り次ぎを許された弟子たちは、中島、渋井、木原、坂井、荒屋など数名の幹部であった。坂井は東京で、木原は九州で、荒屋は岩手県一 …

敗戦の予言と疎開の勧め

 昭和一六年(一九四一年)も暮れに近い一二月八日の未明、ハワイの真珠湾奇襲を敢行し、世界の列強を相手に戦闘状態に突入して以来、緒戦の多大な戦果に勢いづいた日本は、南洋諸島からインドシナ半島、さらにインドネシアへと、次々に …

大戦の末期

 昭和一七年(一九四二年)六月、ミッドウェー海戦での大敗のため、戦局は急速に不利に傾いていった。  そうなると、わずか数か月前までは輝かしい戦果であった占領地が、そのあまりの広さゆえに、日本軍の上に重くのしかかり始めた。 …