(11) 雌伏一〇年

新本部の発足

 昭和一〇年(一九三五年)一月、麹町仮本部で立教した「大日本観音会」は日に日に躍進し、 数か月もたつころには、もう仮本部の建物が手狭になるほどであった。そこで、本部にふさわしい土地、建物を物色することとなった。その最終的 …

社会の注目

 発会式から一週間後の昭和一〇年(一九三五年)一〇月一七日の『日記』に、   地崎なる人訪ね来て北海道定山渓の神体享けたり  とある。地崎は名を字三郎と言い、当時、北海道小樽市で「小樽定山渓自動車道株式会社」という会社の …

「大日本健康協会」発会

 昭和一一年(一九三六年)二月二六日、東京地方は三〇年ぶりの大雪であった。その朝早く、二二人の青年将校に率いられた下士官と兵、合わせて千四百余名が政府要人を急襲し、内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清、教育総監・渡辺錠太郎 …

「大日本観音会」解散と療術禁止令

 はたせるかな、「大日本健康協会」の発会後間もなく、官憲の干渉が強化された。教祖の『日記』には、六月三〇日に特高警察の島という人物が来たと記録されている。  警察当局が何よりも懸念していたのは、まだ小さな組織ながら急速に …

大宮事件

 禁止命令を受けてから一週間後の昭和一一年(一九三六年)八月四日のこと、これまた突然、埼玉県の大宮警察署から呼び出し状が釆た。当時、大宮市内には「大日本観音会」の大宮支部があり、武井良英が支部長を勤めていた。市内には千余 …

第一次・玉川事件

 大宮警察署では翌日釈放されたが、すぐ続いて、今度は地元の玉川警察署から医療妨害のかどで教祖と清水が呼び出しを受けた。清水はその日に帰されたが、教祖は八月一〇日から二〇日まで、一一日間留置され取り調べを受けた。この医療妨 …

「観音百幅会」と「富士見亭」

 昭和一一年(一九三六年)八月以降、玉川の本部は玉川郷の名称を改めて、新しく宝山荘と名付けるようになった。この背後には本部の名前一つからもその宗教的色彩を取り除こうとした意図が感じられる。しかし、この後もなお宝山荘は、昭 …

治療活動の再開

 昭和一一年(一九三六年)の秋のことである。当時、郷里の盛岡に帰って神業に協力していた医師の竹内慶治郎は陸軍中将・八角三郎を荒屋に紹介した。八角の娘の病気を治してほしいというのである。荒屋はこのような有力者がすがってくる …

光を求めて

 療術行為を許された教祖は、一年三か月の空白を取り戻すべく、懸命の努力を続けた。このころ、後に「日本観音数団」の管長となった渋井総斎(本名・総三郎)が入信している。渋井は明治一九年(一八八六年)、埼玉県北埼玉郡の生まれで …

第二次・玉川事件

 このように、教祖みずからの働きとともに弟子たちの活躍によって、岡田式指圧療法はますます発展し、浄霊を受ける人々は各地で増加の一途をたどっていった。ことに本部の宝山荘では、昭和一五年(一九四〇年)の夏から秋にかけて、番号 …