文芸活動

 教祖がふたたび大本に戻った大正一二年(一九二三年)ごろ、大本では、神業の一つとして、文芸活動が盛んであった。昭和二年(一九二七年)には明光社という文芸社をつくり、和歌や 冠句の月刊誌『明光』が発刊された。教祖はさっそく同誌に毎月欠かさず投稿したのである。詠んだ和歌は、神を求める心境を表わした信仰の歌をはじめ、叙景歌や叙情歌に及んでおり、中には相聞(恋)の歌もあり、その内容は多岐にわたっている。そこには教祖の人生万般にわたって、何物にもとらわれることのない心を反映しているのである。

「明光社」第六回、和歌  昭和二年六月一〇日
     題  燕
  軒の端を千代の住家と定めつゝ来てはとび行く燕愛らし

「明光社」第六回、和歌  昭和二年六月一五日
     雑 詠〈ざつえい〉
  吾が恋は果かなきものとなりにけりたゞ語らうは時折りの夢

「明光社」第八回、和歌  昭和二年八月七日
   兼題 白雨 夕立
  烈日の下に喘げる人馬等を蘇らしてすぐる夕立

 何かを始めると、とことんまで打ち込まずにはいられない性格の教祖は、文芸の面でも、周囲の優れた人々に批評を求め、指導を仰ぐというように、熱心に研鑚を重ねたのであった。妻のよ志もかねてからその文才には定評があったので、和歌を始めるや、たちまち頭角を現わした。

 「明光社」では毎月、和歌や冠句の作品を募集し、もっとも優秀な者には「天の巻」が授けられ、この「天の巻」を五つ以上取ると「月の家」の号が許された。教祖夫妻はともにこの号を受け、教祖は「月の家茂月」、よ志は「月の家岡月」と号したのである。

 “冠句”*というのは、俳句作成の一種である。五、七、五の一七文字を原則とし、あらかじめ五文字の課題が決められており、それを上の句に用いてみなが句作し、その出来栄えを競うというもので、機知やユーモアの才が問われる言葉の遊びである。
 
* 冠付〈かむりづけ〉、笠付、烏帽子付と同じ。俳句で、点者が出した上の五文字、すなわち冠に対して、中の七字、下の五字の、合わせて一二字を付けて、全体で一七字の俳句を作るものである。元禄時代から始まっている。なお、後に述べる「笑い冠句」について説明すれば、とくに滑稽な内容を盛り込んで歌うものを教祖は「笑い冠句」と呼んだのである

 冠句に対するものに下の句の五字のみを決める沓句という形式もあって、正式には、合わせて冠沓旬と呼ぶ。しかし、一般にただ冠句といえば、どちらをも意味していたようである。つぎの二例は、それぞれ教祖が昭和三年(一九二八年)と四年(一九二九年)に作ったものである。
    題 トソキゲン
  とそきげん鬼も仏に見える春

    題 ねころんで
  ねころんでロハで済した日曜日

 こうした当意即妙の機知で頭角を現わした教祖は、出口王仁三郎から名をもらって「朝寝坊月(あさねぼうきげつ」と名乗り、句会を主催してその句作や選にあたった。後に、朝の遅いのを反省した教祖は、「朝雇坊暉月」を「明烏阿呆(あけがらすあほう)」と改め、それを機に早起きになったとみずから語っている。
そのことであろうか、つぎのような短歌が詠まれている。

  霜の題歌ものさんと朝寝坊起きいで見れば消えて跡なし

 大本の芸術活動の中心に立った出口王仁三郎は、足繁く明光社を訪れた。そこでは上下の別にこだわらず、自由な談論が楽しめた。そして教義や信仰について疑問のあるものは、世間話の合間に、友だち同志のような隔てのない気持ちで、その質問を王仁三郎にぶつけることができた。明光社員として、初めからこのような機会に恵まれた教祖は、亀岡にある本部参拝のおりには、明光本社のある亀岡天恩郷の中の、明光殿に宿泊し、出口とも親しい語らいをしたのである。教祖の気質から考えて、むしろこうした肩の張らない雰囲気の中で、自由に学び、自分なりに追求をしていく時間が多かったように思われる。

 教祖はこうした大本の文芸活動に、積極的に加わる一方で、昭和五年(一九三〇年)九月に「天人会」という名で、みずから主宰する独特な笑い冠句会を発足させた。

 第一回の句会は「ニヤニヤと」と「太〈ふと〉い奴」という題である。九月二〇日の夕方に開かれ、一八名の信者が参加した。世相を痛烈に皮肉ったもの、軽妙なユーモアを表現したものなど八九句が読み上げられ、暗い世相を吹き飛ばす、陽気な笑い声が松風荘に響き渡ったのである。教祖自身涙を流して笑い、参加者全員が抱腹絶倒、笑いが笑いを呼んで、とどまるところを知らなかった。

 教祖は昭和六年(一九三一年)四月に行なわれた第八回の冠句会までの句を、一冊にまとめ『天国の花』と題して出版したが、松風荘主人の名によって、笑いの効用をその「序文」に書いている。 このように「笑い冠句の会」は、教祖の天国的性格をもっともよく現わすものであった。

 しかも、教祖があえてこの時期に、みずから率先して笑いを奨励したのは、宗教を取り巻く厳しい情勢の中で、経済的な困難に耐えながら布教を続けていた奉仕者や信者の心を、引き立て、勇気づけようとする愛情からでもあった。

 一方短歌の方は、少し遅れて「瑞光歌会」という名で、翌、昭和六年(一九三一年)五月三日に第一回の歌会を開き発足した。教祖の命で瑞光社を組織して、月刊誌『瑞光』が発刊され、購読料三か月以上の前納者を社友と定め、月一回の歌会が開かれたのである。この瑞光社は東京府豊多摩郡杉並町馬橋一二七番地(現在の東京都杉並区阿佐谷一丁目)の清水清太郎という信者の家に本拠を置いて『瑞光』の発刊にあたった。清水が編集や印刷所への手配を受けもち、当時清水の家に寄宿していた井上茂登吉(本名・福夫)が校正を担当した。

 清水は商売上の取り引きを通じて教祖を知り、その導きで昭和三年(一九二八年)に大本へ入信した。そして筆が立つので、とくに出版部門で活躍したのである。

 なお、『瑞光』の名で出発した雑誌は、昭和七年(一九三二年)から『松風
』と改名された。