前節に述べた「湯女図」入手について、ある美術商は、
「天下に喧伝される『湯女』は、三井の大番頭として有名な団氏(団琢磨)の所蔵品で、どう推測しても手放すはずがないと思っていたものまで、教祖様の所に引き寄せられたのですから、作者の霊がお慕いして寄ってきた、としか解釈のしようがありません。まったく恐れ入ったものです。」
と述べ、常識では計れない神秘さを表白している。
安藤広重<*>の有名な版画「東海道五十三次」が入手されたことについても、奇蹟的な話が伝えられている。版画専門の美術商の本多が広重の作品を持参した時のことである。教祖はかねてから保永堂版・「東海道五十三次」の入手を望んでいたので、その初版があればいつでも買おうと言った。しかし、保永堂版は愛好家が秘蔵して容易に手放す品物ではなく、再版のものならともかく、初版物となれば僥倖<ぎようこう>(偶然の幸運)を待たなければならないほどのものであった。
*江戸時代末期の浮世絵師。風景版画に新境地を開く
事実、四〇年間版画の取り引きをしている本多自身でさえ、まだ、めぐり会ったことがなかった。そこで、
「さあ、初版物は……。」
と言葉を濁して帰ったのである。ところが、まさにその夜のことである。ないはずの初版物を持ち込んだ者があった。しかもそれが、古箪笥や鏡台を扱う古道具商で、浮世絵にはまったく縁のない人物であったから、本多はあまりのことにただ唖然とするばかりであった。そして、翌日、一刻も早くと息せき切って、教祖のもとへ届けたのはもちろんのことである。
美術品は金を積めば手にはいるというものではない。心底から美術を愛し、ぜひにも入手したいという強い願いと、その願いが実現していく運の強さが必要とされる。しかも人と競ったり無理をしたりせずに、教祖のまわりへ美術品が引き寄せられるように集まってきたのは、不思議というほかはない。
文学博士で浮世絵美術を研究する楢崎宗重<Γ>は、教祖の蒐集の非凡さを、
「集まったということは、その人に人徳があったからです。その意味で教祖様のご人徳によって、あれだけの名品が集められたのだと思います。人を愛すると同じように美術を愛されたのでしょう。しかも短時日<たんじじつ>の間に急速に集められたのも、教祖のご人格に引かれてみなが持って行ったわけで、稀<まれ>に見るコレクションだと私は思います。」と評している。
教祖はこのような蒐集の霊的な背景を、
「霊界に於てその作者は勿論、愛玩していた人、その品物に関係のあった人等の霊が、大いに手柄を立てたいと思い、適当の順序を経て、私の手に入るように仕向けるのである。
何故なればその功績によって救われ、階級<*>も上るからである。言う迄もなく僅かの期間でこれ程の美術館が出来たというのも、全く右の理由によるのである。」(『天国の礎』合本・三一四頁~三一五頁)
と説いている。
*教祖は霊界は一八一段階に分かれていると説いている。その霊界における階級のこと
教祖は美術品の蒐集にあたって、歴史的、考古学的な価値よりも、純粋に美の観点に立ち、東洋美術の中から新古の傑作を選んでいったのである。しかもその判断にあたっては、誰が見てもその美しさに打たれ、楽しめるものということを絶対条件としたのであった。こうした基本方針は、できる限り多くの人々に対して美を楽しむ機会を与え、魂の向上への道を開こうとする人類愛に根ざしているのである。
このように教祖は、見る者の魂に訴える美術的価値の高いものを厳選した。蒐集がきわめて多彩でありながら、その中に筋cが通っていると評されるゆえんである。
実業家として高名な松永安左エ門<Γ>は、茶人でもあり、またみずからも多くの名品を集めたことで知られている。生前、小田原市内に松永記念館を設けて、一般に公開したが、箱根美術館にもしばしば鑑常に訪れていた。ある時、
「岡田さんのコレクションはじつに幅が広い。そのうえ、それぞれの部門で大変に質が高い。本当に筋の通ったすばらしい蒐集だ。」
と賞賛を惜しまなかったのである。