梅園、つつじ山

 救世会館建設の敷地として、山の斜面を切りくずし、三〇〇坪(三九六〇平方メートル)の土地が一応の造成をみたのは、昭和二五年(一九五〇年)の夏のことである。この時、ケーブルを使って運び降ろされた大量の土砂は谷を埋め、さらに築山となった。これが今日の梅園にあたる所であり、昭和二五年(一九五〇年)の春から造成が開始された。また、新人寮から瑞雲会館の横を通って梅園を抜け、つつじ山の下を救世会館へと進む参道が造られたのもこのころである。

 さらに、その二年後の昭和二七年(一九五二年)一二月には救世会館から水晶殿をつなぐ隧道<>すいどうが貫通している。これはつるはしで掘り進み、仕上げられた隧道である。貫通の日が近づくころには、ひんやりとする土の壁を隔てて、向こう側から掘り進む鶴嘴の音がかすかに聞こえてくるようになった。そしてある日、その音が刻々と鮮明になったと見るや、目の前を塞いでいた壁が取り払われ、反対側の奉仕隊員の、土によごれた真黒な顔がのぞいた。その一瞬、期せずして双方から万歳の声がわきあがった。

 この前年、二六年(一九五一年)の春には、一年がかりで工事の続けられていた梅園が完成した。この梅園は同年九月に着工し、翌二七年(一九五二年)四月に完成したつつじ山の場合と同様に、琳派の芸術を愛した教祖の芸術感覚から発想されている。

 瑞雲郷の梅園は、小山の重なる起伏の面白さと、また古木ぞろいの風雅な趣にその特色がある。それはまさに、教祖がこよなく愛した尾形光琳の「紅白梅図屏風」の感覚を、造形の世界に移したものにほかならない。

 梅園の造営に先立って梅の購入が始まったころ、教祖は植木職の森元勲に、

  「花梅は匂いが弱いから、実のなる木で古木を植えるように。」

と指示した。そこで森元は樹齢一〇〇年以上の古木をあちこち探して歩いた。ここに植えられた三六〇本のうち、一部は大磯の三井邸から、残りは小田原市郊外の下曽我の梅畑から入手したのである。樹木の吟味に時をかけたことから、根回し、運搬、そして植え込みまで、都合四年の月日がかかっている。

 つつじ山は、かつては雑草の生えた斜面であったが、救世会館の用地造りの残土をトロッコで運んで盛り上げ、今日の形に仕上げたものである。
 
 どこから見ても丸く見えるようにという教祖の指示のもとに長い間工事が続けられた。しかし、なかなか教祖の思う姿にできあがらなかった。教祖の許可はいまだおりなかったが、おおむね形ができあがったと判断した植木職は、工事に携わる職人や奉仕隊への同情もあって、
 「形は大体できあがっていることだから、思いきってつつじを植えてしまえば、まさか抜けとは言われまい。」
と三〇〇本ほどの苗を植えてしまったのである。

 翌日、職人も奉仕隊員も、教祖の視察を緊張のうちに待ち受けた。やがて車で到着した教祖はいつものように素早く辛から降りたった。そして、つつじ山の様子を一見すると、即座に、

  「この形では駄目だから植えてあるつつじはほかに移し、初めから形をやり直すように。」
と命じたのである。言葉は短かったが、妥協を許さぬその調子は、断固とした信念を感じさせた。すぐにつつじが取り除かれ、ふたたび土砂運びが始まった。そして、さらに何日かを経た後、どこから見ても丸味を帯びたみごとな山がようやくできあがったのである。

 こうして教祖みずからの指揮によって、まろやかな曲面の美をモチーフとした造園芸術がそこに展開されたのであった。

   「これならいい。」

と教祖も非常に喜び、今度は本式につつじが植え付けられた。

 数日後、教祖は、完成したつつじ山を感慨げに見おろしながら、

   「よくできた。長い間ご苦労でした。」

と奉仕した信者や職人の労をねぎらってから、さらに言葉を継いで言った。

 「みんなはこの山を造るのに、日数や経費を心配したろうが、そんなことは問題ではない。 私はほんとうに立派なものを造って後世に残したい。ただそれだけを考えているんだ。」

 一同はこれを聞き、教祖の造営にかける気魄に打たれるとともに、この造営が経綸上大切な意味を担う、かけがえのない神業であることを実感したのである。

 つつじ山の苦心は造成面ばかりでなく、それ以前につつじの入手に関しても、大きな困難があった。教祖がこの山に植えるように指示した数は三六〇〇株であった。しかし成長に時間のかかるつつじの、しかも形や大きさのそろった木は、容易に見付けられるものではない。

 当初、小田原をはじめ東京、埼玉の植木屋まで探したが、いっこうに捗々しい返事がなかった。
つつじ山の完成の日が近付いてくるにつれ、担当者は、天城を越え中伊豆町の旧家をたずねたり、三島から箱根山麓一帯の農家を歩いたりして、ようやく必要な数をそろえたのであった。

 このことから担当者は、教祖の言葉は必ず成就するという信念を新たにしたのであった。