『明日の医術』発刊

 時代はさかのぼるが、昭和一五年(一九四〇年)一二月、第二次・玉川事件の発生によって、教祖はそれまで岡田式指圧療法の名のもとに続けていた布教活動をみずから断念した。

 このため、神霊による治病救済力を授ける講習も、弟子たちに代講をさせるようになり、みずからが講習を行なうことはなかった。代講を許された幹部の弟子たちは、教祖によって著わされた、先の『日本医術講義録』(後に『岡田式療病術講義録』と改訂)や、観音講座の内容を基本にしながら、各地において治療及び講習会を行なうようになり、東京中心の布教から、教線はむしろ広範な地域にわたって展開されるようになった。

 また、これまで講習終了者に教祖から与えられていた「治病観音力」と経<たて>に書かれたお守りも、「光明」と横書きされた書体に改<あらた>められた。ただし、この後も終戦までは、「お守り」と呼ぶのを避け、引き続き「記念品」という名称をもって呼ばれていたのである。

  超人の力秘(かく)しつ人の為<ため>世の為揮う時ぞ待たるる

  大いなる望みに燃ゆる心おさへ移りゆく世を静かに観つるも

 こうして、第一線の仕事から退いた教祖は、みずからは各地を旅行したり、自然農法の研究や絵筆を揮ったりして、時期の来るのを待ち、悠々自適の生活を送っていたが、また、執筆にも大いに力を注<そそ>いだのである。

 それは、やがて『明日の医術』と題する著書となって出版された。これは教祖がこれまで神示によって創成し、普及してきた浄霊の業を、実証的、霊科学的に著述したもので、三篇に分かれている。これは初めて活版印刷にされた本格的な出版物で、これまでにまとめてきた『日本医術講義録』や『岡田式療病術講義録』などに加筆、集成したものである。その概要は、つぎのような内容について、教祖自身の研究や経験を中心に、社会に発表されている統計資料なども用いて、説き明かしたものである。

   一、人口問題の将来と根本策
   二、医学の誤謬の指摘とその解明
   三、病理衛生
   四、霊科学

 この教えを、教祖はみずから霊科学と呼んでいる。こうして当局によって治療を差し止められたものの、その結果生まれてきた余裕ある時間は、『明日の医術』の執筆に振り向けたのである。教祖はその経緯をこの本の中で、

 「私の治療に従事してゐる時の治癒率<ちゆりつ>は当<まさ>に驚くべき程で、その治癒率は九十パーセントは確かであった。常に門前市をなし、どうにも身体が続かなくなったといふそのことも廃める理由の一つであった。治病率九十パーセントなど、いふと何人も本当にする者はあるまい。

 特に専門に従事する人は猶更信じ難いであらう。しかしながら私が治療に従事してゐる時に、こういふ事を言ったらそれは宣伝の具に使ふと思はれるが、今は廃めてしまって閑日月を送ってゐる境遇でそんな宣伝などは何等必要はない訳である。」

と書いている。

 こうして成った 『明日の医術』初版は、昭和一七年(一九四二年)九月二八日にその第一篇と二篇が、非売品として発行され、信者及び受講者(入信者)のみに下付された。
第三篇は翌年一〇月に発行されたのである。
教祖はこの中でまたつぎのように書いている。
 「この著書位想像もつかない驚愕すべき説は無いであらうと思ふのである。あるいは異端邪説視する人もあるかも知れない。……真の日本医術を創建し、滅びゆかんとする人類幾億の精霊を救済せんとする一大本願がこの著書となったのである。」

 このようにできることなら広く社会の人々に対して訴えかけ、書店にて販売したいと考えていたのである。しかし、当時は太平洋戦争のさなかでもあり、思想、言論の取り締まりも厳しく、当局の検閲通過も危ぶまれる情勢下にあったので、市販することをやめ、やむなく非売品扱いとして、信者のみに与えるようにしたのである。

 『明日の医術』に続いて、『結核問題と其解決策』という単行本が、一七年の一二月一三日に刊行された。これは『明日の医術』の中から、結核に関する所説を抜粋し、新たに編集したものである。当時、肺結核は不治の病、亡国病<ぼうこくぴよう>と恐れられ、政府はその撲滅対策に腐敗していた。

 教祖は、唯物医学に盲目的に依存する在り方に警告を発し、このような迷妄を打破する目的をもって真の根本対策を示そうと考え、啓蒙書の体裁にしたのである。この書の中で、実地治病のデータをくわしくあげ、よくわかるように示した。

 『明日の医術』の初版が出版された昭和一七年(一九四二年)、教祖は中島一斎、渋井総斎らに命じて、それぞれの治療院に所属する者の中で、民間の治療師の資格をもって浄霊にあたっていた人物を合計四名、都内の軍需工場へ派遣し、従業員の浄霊にあたらせている。この試みは大きな成果を収め、浄霊を受けた中から、お守りを希望する者が何人か生まれたのである。

 すでに述べたように、教祖の著作の背後には、みずからが多年にわたって苦悩する人々を救ってきた経験と、また、多くの弟子を通じて行なわれた神業による事実の裏付けがあったという、これは一つの例証<れいしよう>である。

 『明日の医術』、『結核問題と其解決策』の両著作は、種々当局に働きかけ、その運動のかいあって、検閲を通過することができた。そして前者は昭和一八年(一九四三年)二月に非売品という形で、後者は五月に、それぞれ再版本を発行する運びとなった。

 昭和一八年(一九四三年)二月五日の『日記』には、

 「渋井氏の案内にて東宝小劇場に到り、洋画〝美貌の敵〟を観、日劇に入り〝ふるさとの
 風〟の映画を観、中央亭に到り出版紀念の会を催す。会社百十余人盛会なりき。」

とある。『明日の医術』の再版を祝して記念の集いがもたれたことがわかる。

 この 「出版記念会」は教祖夫妻を中心に、渋井総斎、中島一斎をはじめ、おもなる弟子が集い、総勢一一四名にのぼった。午後六時から始まった祝宴は一時間で終わり、次いで教祖は約一時間半にわたり特別に講演をした。その後、この集いのために詠んだ二〇首の和歌を井上茂登吉が朗詠して出版記念会はめでたく終了したのである。

  病なく貧なく争なき御代をうち樹<た>てんとして夜日いそしむ

  諸人のとどかぬ願とあきらめし病無き世を吾打建つるなり

 『明日の医術』全三巻は、信者や入信希望者のみに頒布していたが、読む者は、みずからの身近な問題の解決を可能にする教えに触れることができ、それまで知らされなかった霊の存在に目覚めて、大きな衝撃と感動を覚え、新しい世界への目を開かれるとともに、大きな力を与えられたのである。

 戦後、教祖のもとにあって教団の基礎を築いた教会長をはじめ多くの専従者たちは、この『明日の医術』によって救世への情熱をいやがうえにも燃やし、教祖の使徒となることを許された、ただならぬ神縁に、今さらのように思いを新たにしたのである。

 こうして多くの人々の覚醒を促した『明日の医術』も、昭和一九年(一九四四年)二月には警視庁より発行禁止の処分を受けることになった。それは初版が発行されて、わずか一年半後のことであった。禁止の理由は現在の医学に対立する考えに基づく本であり、また国家の医療行政に抵触するということであった。霊が実在するという基盤に立って、その霊の曇りを払拭しなければ、病の根本的な解決は有り得ないと説くその内容が当時すでに唯物偏重の思想が高まる中にあって、受け入れ難いものに写ったことは当然のことであった。