總斎が活躍していた当時、専従者になるということは、教団に就職することではなく、神の使命によって御用を“させていただく”ということを意味していた。このことを絶えず總斎は周囲の者に教えていた。
次のいくつかの話はこの間のことを伝えてきわめて興味深い。
これは、中根孝次の話である。昭和二十五年当時、中根は専従者になるべく一所懸命に開拓布教をしていたところ、突然母が脳溢血で倒れ、一日経たぬうちに亡くなってしまった。中根はその葬式のあとの直会<なおらい>の席上、親戚の者からさんざん信仰のこと、母を医者にも見せずに死なせたことを批判され、さらに働きもしないで家から金や米を持ち出すとまでののしられた。
さっそく宝山荘に總斎を訪ね、このことを報告して今後どのようにしたらよいか相談したところ、總斎はまず中根の気持ちを問いただした。中根は、
「私は肺結核を救われ、レントゲンの結果、影がなくなっていました。浄霊は病気を治すのみではなく、なくすのであり、病・貧・争に苦しむ人びとに健・富・和の喜びを与えるものです。地上天国建設の明主様の理想実現の御用を喜びとし希望に燃えてやっておりますので、続けてやっていきたい」
と、答えた。總斎は、
「それならご修行に来なさい。何も持ってこなくてもいいよ」
と温かい言葉をかけたという。その当時は、十日間のご修行には米一斗(十五キロ)と二千円を持参しなければ参加できなかったからである。そして、中根に対してさまざまな助言や指導の言葉を与えた。
「導いた人の浄化を解決するためにお世話をする。それが困難な人ほど前世に関係があった同士で、生まれてきて師弟関係になってくる。だから、礼節と順序は厳しいものなんだ」
と、總斎は教え、
「この神様の御用をする人は、代々前世の夜の時代の建設者だった。いわば、霊的な意味で罪つくりをたくさんしている。そして、今度は昼の世に生まれてきて、神様の御用をさせていただいて罪滅ぼしをするようになるのであるから、浄化は厳しいよ。その霊の浄めをいただきながら、一つひとつ浄化を解決していくなかで向上していく仕組みになっているのだから、浄化も厳しいが、解決した時にその喜びも大きい。辛いこともあるが、辛いことだけじゃない。必ずその中には楽しみもあるはず。その辛いこと楽しいことの繰り返しのなかで修行させられていくのだから、浄化に負けないでしっかりやりなさい。そして、そういうことを体験するほど、将来のために大きな力となるのです。それには“焦らず、怒らず、怠らず”の三箇条を守っていきなさい」
と、励ましの言葉を与えている。また、
「あなたは先祖の面汚しと言われたそうだが、先祖の面汚しかどうかは霊界に行ってみればわかる。先祖は自分たちの残した子孫の中から神様の御用をする人が出ると、たいへん誇らしい思いをされるのです。宗教による救いの大きさ、深さがあればこそなんだから、ありがたいという心で受け止め、御用の人になることを自分でも誇りに思いしっかり御用に励みなさい」
さらに、
「要するに、御用の人になるということは、食うために職業として選ぶのではない。その人の因縁、使命として、御神業の中の一つとして御用を担う人に選ばれ引き出されるのだから、辛いことや苦しいこと、嫌なことから逃げ出さずに、真正面から立ち向かっていくことが大切である」
と、当時の中根の立場に立ってわかりやすく御用について説明している。
中根は御用の人となる以上、サラリーマン根性ではいけないのだと強く思ったという。
中根が宝山荘に修行に上がることを許されていた頃の話であるが、ある時、總斎をはじめ何人かの幹部が和やかな雰囲気の中で浄霊をしていた。その席にたまたま中根も同席していたのだが、その時、總斎に、
「どうしたら『五六七<みろく>会』のように大勢を参拝に連れてこられるのですか」
という質問をした。總斎は逆に、
「君は明主様をどのように考えているのだね」
と中根に対して質問した。そこで中根は、
「命を捧げても惜しくない方です」
と答えたという。その言葉を聞いて、
「その覚悟ができていれば話は早いな。それでは、明主様に命を捧げるということはどういうことなんだ」
と重ねて質問したのだが、中根は言葉に詰まってしまった。
そこで總斎は、当時宝生教会で總斎に仕えていた岡田幸造に、「岡田さんはどう考える」
と質問した。岡田は、
「そうですね、浄化している人に浄霊を始めると命がけになってしまうことがありますが、自分の誠心で命がけで取り組み、浄霊で人を救い、自分の誠心で相手の誠心を引き出して、その誠心を明主様に捧げるように結びつけて、自分は無になるということと思いますが……」
と、答えた。總斎はその岡田の言葉を受けて、
「そうなんだよ。それが明主様に命を捧げるということになるんだろうね。命がけで明主様に誠心を捧げる人を育てる。これが御用をする人の大切なことだよ。それ以外に何がある。御用をする人は浄霊の職人になっちゃだめだ。また、宗教の職人になっても駄目なんだよ。自分は型なんだ。自分が明主様に誠心を捧げるからこそ、信徒にも明主様に誠心を捧げる人が育つんだ。自分が実行せず、口でいくらうまいことを言っても人はついてこないよ」 要するに、御用の人(専従者)は、サラリーマン的に仕事や行事をこなしているだけではいけない。明主様に誠心を捧げて悔いない人を育てる。それが一番大切だということを總斎は諭したのであろう。
そして、最後に、
「何をしていようと、神様、明主様にはお見通しなんだよ。ジィーと見ていてね。そして本当の誠心しか受け取ってくれないよ。表面はいくらうまくやっているように見せかけても、内心に怠け心があれば決して実を結ばない。けれどもね、固くなっちゃあだめだ。相手も固くなっちゃうからね」
とつけ加えた。
總斎は御用の意味について、いつもこのように饒舌<じようぜつ>に説明したわけではない。むしろ態度で示し、姿で教えていたことの方が多いのだ。總斎が明主様の前ではいつも前掛けをしていたことはすでに述べた。
これは堀籠悦子の話である。
「今夜り返ってみますと、これはどなたも同じ印象じゃないかと思いますが、はっきり言って、渋井先生はお話は下手でした。月次祭にどんな話があったかということが全然印象に残っていないんです。それにおっしゃっていることが一貫していないんです。けれども、月次祭での話が終わると聞いていた方は“ああ、御用をしなくっちゃ”という気持ちになる。これは渋井先生が完全に無私の人であり、すべては神様、明主様への御用を行なってきたからなのですね」
と言うのだ。しかし、普通ならばこの堀籠の話は矛盾しているとしかいいようがない。話が下手なのに、人をなぜ御用をさせる気にするのだろうか。
堀籠によれば、總斎は“献金”という言葉をまったく使わなかった。使わないのに、總斎の話を聞いていると、財布の底をはたかないと損するような、何か大事なものに乗り遅れるような気がしたという。終戦直後は給料も遅配、遅配でたいへんな時代だった。その中で、帰りの汽車賃だけ残してあとは全部はたいて帰ってくるようなこともよくあったという。
堀籠は、
「本当にあれは一体何だったんだろう」
と今になって思う。そして結局判ってくるのは、總斎が明主様に、わが身を投げ出して無私の精神で奉仕している姿勢が、信徒の魂を揺り動かしたということなのである。ここまでは奉仕しますというようなそんな中途半端なものではない、徹底した姿勢である。
總斎の言葉に人を動かす強い言霊<ことたま>が宿っていたと解釈することもできよう。当時、直接總斎から薫陶を受けた堀籠は、
「先生の全身から出ているもので教えていただいたような気がします」
と、述べている。
現在私たちがどのように理解しようと、直接總斎に触れた多くの人びとは、このような、解釈を超えた一つの信仰体験としての總斎の存在を心に刻んでいるのである。
だが、私たちは今直接總斎に会うことも、触れることもできない。であれば、解釈よりもむしろ總斎の具体的な行動を学びながら、私たちの心の中に実践の人・總斎のありようを的確に捉え再現していくべきではなかろうか。そうすることによって、總斎が言うところの御用の本当の意味を噛みしめ、その上で、今日の私たちの天国化への営みのなかに、總斎を甦らせていかなければならないであろう。