相次ぐ神秘

 昭和元年(一九二六年)の神の啓示から二年余を経た昭和四年(一九二九年)四月一四日、教祖は大本の春季大祭に参拝するため、京都府の綾部、亀岡におもむいた。一四、一五日の両日、参拝があり、その翌一六日のことである。出口王仁三郎の出身地である京都府曽我郡穴太在の小幡神社の祭典に参拝しようと思いたち、車を呼んだ。そして車が出ようとするところへ、立憲政友会(明治三三年・一九〇〇年、伊藤博文の主導によって結成された、第二次世界大戦前の代表的政党。昭和一五年・一九四〇年解党)の志賀和多利代議士の夫人が来合わせて、
 「埼玉県から今着いたばかりなので、自分も連れて行ってほしい。」
と言う。教祖は、
 「ちょうどいい。」
と快く夫人を同乗させ、車は走り出したのであるが、その時胸中にふとひらめいたものがあった。同道の夫人の志賀という姓に、何か神秘を感じ、

 「近江の琵琶湖は一名志賀の湖という。すると今日の祭典は琵琶湖と何か関係があるのではないか。」

と思ったのである。こうして教祖は恙なく穴太での参拝を終え、東京へ帰った。

 一方、出口王仁三郎は、穴太での大本の祭典が済むと、車に乗って琵琶湖へ向かい、湖畔の有名な料亭で一泊し、翌日そこを出発するにあたって「怒濤冲天」という字を書いて、大本信者であるその家の主人に与えた。すると不思議にもその数日後、近畿、北陸、関東など広範囲にわたって大暴風雨が襲い、琵琶湖一帯でもその勢いは凄まじく、遊覧船一隻をはじめ多くの漁船が転覆する大事件となったのである。教祖はこの時きわめて重大な神示を受けた。そのことをつぎのように書いている。

 「観世音菩薩の守護神である金龍神が、同湖底に数千年間潜んでゐたのが、時来って昇天する際、遙かに之を眺めてゐた赤龍、(聖書にあるサタンは赤い辰なりといふ。)が、最も恐れてゐた金龍神出現を知って急遽飛び来り、金龍神を屍斃〈たお〉さんとして、湖の上空に於て大争闘を演じ、遂に敗北して北方へ逃げ去ったのであるが、その乱闘が暴風雨となったのである。」

志賀の湖水底深くかくれませし金龍神の現れましにける

八洲河原天の真奈井*にかくろひし龍神いよよ現れましにける

 *高天原にある神聖な水の湧き出る泉を意味する古語

 この神秘があってから一か月後の五月二三日、東京地方を大雨が襲った。教祖は店を休んで色紙に絵を描いていた。すると正午ごろ、突如、大森・松風荘付近の上空で雷鳴が轟きわたったのである。この出来事の背後に金龍神の到来を感得した教祖は、後年、

 「正午頃住居の上空に大暴風雨雷鳴が起ったが、其時から金龍神は私の守護神となったのである。」

と書いている。

 右の事件より少し前の四月二日、ようやく東の空が白みかけようとする午前五時ごろのことである。かねてから身重であったよ志がにわかに陣痛を訴え始めた。

 岡田家では先妻のタカの時代から、出産のさいに助産婦の水留ひさを頼むことにしていた。この時も臨月を迎えて、何かあれば連絡する手筈になっていたのであるが、時間が時間でもあり、水留はなかなか来ない。赤児は今にも生まれる気配である。
 「湯をわかせ、盥〈たらい〉の用意を。」
と教祖は先に立って指図をしたのである。とうとう水留は出産に間に合わなかった。教祖はみずから産婆の役を勤め、無事に男子を取り上げたのである。

 教祖は昭和初期から、毎日『日記』をつけ始めたが、これは一日を顧〈かえり〉みて、おもな出来事や感慨を和歌形式に詠んだものである。

 現在、昭和一八年(一九四三年)までの合計一五冊が残されているが、昭和初期のころ、神業と生業の両立を図りつつ、寸暇〈すんか〉を惜しんで神秘探究に努めた様子が、当時の『日記』に生き生きと描かれている。

 この時の誕生についても、つぎの歌を詠んでいる。

  水留の来らぬ内に之れはこれは産声雄々しく男児生れり

 止むを得ず吾れは産婆の代りして取上げるよりせんすべのなき

 大神の貴〈あて〉の経綸〈しぐみ〉かしらねども産婆役せり生れて始めて

 みずからの子供の誕生を通して、教祖はわが身に与えられた運命と、みずからの担うう使命を強く感得したのであった。

 今、世界は明るさよりも暗さがまさり、喜びよりも、むしろ悲しみの多い世の中である。しかし、このような世の中がいつまでも続くものではない。神の絶対の力と愛によって、新しい世界が誕生する。そして神の代行者として、その世界を地上に創造するのは教祖自身であるということ、これは昭和元年(一九二六年)の神示に明かされたことであった。神はこの神秘を、教祖が産婆役をしたという型の中に改めて明確に示したのである。この時生まれたのが、三男・茂芳であった。

 翌年の昭和五年(一九三〇年)にはつぎのようなこともあった。当時大本では、中国の世界紅卍字会との間に交流があった。世界紅卍字会というのは、一九二〇年、中国山東省出身の呉福林、劉紹基の二人が済南(山東省の首府)で通院*を設けたことがその起こりといわれる。最高神として至聖先天老祖を祀り、慈善事業を活発に行なっていた新宗教団体である。
 * 神壇を設け神仏の降臨を仰ぎ、その神託に従って活動する 信仰修養団体
 これについて教祖は、後につぎのような主旨の話をしている。

 「救世教では、お蔭や奇蹟で神様のあることがわかりますが、紅卍字会では全然別のやり方で神様をわからせるのです。正面に神様の席を設け、香を焚き、読経したりしてから 『扶Е〈ふーち〉』というのを始めるんですが、四角の浅いお盆に銀の砂をしいて机の上に置き、その両側に二人の人が丁字形の棒を持って立つと、その先が自動的に動いて字を書き、老祖のお知らせがあるんです。みこ〈ヽヽ〉という字は、丁に人を二つ並べて巫〈みこ〉と書くでしょ、その形です。そして扶Еを書くのは釈迦、観音、弥勤、孔子、キリストといった大宗教家が、老祖のいいつけで書くのです。だから、『観世音菩薩、老祖の命により何々の教えを伝える』と言う風に出るのです。これはとても早いのですから、二人の人間が相談するなんてことはできません。」

 昭和五年(一九三〇年)の三月二六日のことである。東京の麹町にあった大本・愛信会本部(確信会を改称)に、世界紅卍字会の幹部一〇人が来て、扶を実際に行なうこととなったので、教祖はよ志を伴って出かけた。

 書画壇を観んとてよ志子伴いて愛信会差し家を立ち出づ

 老祖筆浄〈ろうそひつじよう〉の大書を貰いけり綾部に於て書かれしものとて

 この席で教祖は、紙面中央に大きく浄、横に小さく岡田茂吉と書かれた書をもらった。世界紅卍字会の一行が東京に来る前、綾部の大本本部で行なわれた扶で書かれたもの──という説明付きであった。後になって教祖は、 「私は浄霊というように、浄ということが大事な仕事ですから、もう、その時に神様の方では決まっていたわけです。」

と語っており、この文字は、教祖のその後の運命を暗示した、不思議な贈り物となったのである。