七 永遠の生命<いのち>とともに

 コトバあり、「汝いずこより来り、いずこへ行くや」またコトバあり、「我祖先より来り、子孫へ行く」と。されば個の生滅は永遠の生命の流れの中の一契点にすぎないのである。昨二十九年の春四月、明主は気分すぐれないことがあったが、妻良子にそれまでとはうって変ったきびしさで、万般にわたる修業を命じた。そして昭和三十年(七十四歳)の一月元旦には、すでに、永遠の生命の中にあって、現界の自己の運命を観じていたのであろうか、側近の者に、今年はみんながびっくりすることが起るであろうといった。それから昇天の数日前には、妻に対してまたもとのやさしい明主にもどり、「随分、君には無理をいったなあ」と、感慨ふかそうに語った。そして二月十日、午後三時三十三分、熱海の碧雲荘において、その霊は肉体をはなれて、霊界に昇っていったのである。そこで妻良子を二代教主に推戴し、二月十七日に熱海のメシヤ会館において昇天祭を、ついで箱根強羅の墓所において墓所祭を執り行った。その日の模様はつぎのようであつた。

 すなわち二月十七日の午後二時より、熱海の碧雲荘の明主の居間、正面床の間の光明如来の絵像の前に霊柩を安置して、神式による柩前祭を執り行った。年前三時二十八分、霊柩車はメシヤ会館へむかい、三時五十分に到着、会館の舞台正面、床の間の千手観音の神体の前に明主の写真をかざり、その下に霊柩を安置して、四時十分に柩前祭をすませた。祭壇の左右には、文部大臣安藤正純、農林大臣河野一郎、徳川夢声の諸氏をはじめ、各界の著名人からの生花がかざられ、白と紫の幔幕がはりめぐらされた。会館のライトに照らしだされた瑞雲山に夜はまだ深く、眼下には熱海の点々たる灯、相模湾がしずかに眠っている。

 午前五時から一般信者が入場し、七時にはその数、七千人におよんだ。この朝、空は灰色のヴェールに包まれ、海はほのかに霞んで、大島の島影はみえないが、初島や伊豆の島山はかすかに姿をあらわしてきた。九時、昇天祭の開式がアナウンスされ、嚠喨<りゅうりょう>たる雅楽の吹奏裡に、昇天祭祝詞の奏上、弔辞の朗読、弔電の披露の後に、白無垢姿の二代教主が玉串を奉奠すれば、各新聞社のカメラマンはフラッシュをたき、ニュース映画撮影のための電光は明滅する。ついで天津祝詞を奉唱して、十時十分に式は終了した。

 十時四十五分に、場内一万人の信徒会葬者のなかを、霊柩車は箱根強羅にむかって出発した。二代教主をはじめ御供の乗用者、バスなど三十八台、晴れかけた空の下を、小田原を経て、箱根強羅の神仙郷上段の墓所に到着した。時に零時五十八分であった。

 午後一時三分、柩をばとこしえに奥津城<おくつき>ふかく鎮めれば、入口の扉はしずかにとざされた。奥津城は御陵型の土饅頭式である。これは信徒奉仕隊たちが昼夜兼行の突貫作業によつて、わずか四日間でつくりあげたものである。所は明主最後の住居予定地であつた。

 午後二時より墓所祭を執り行い、二時三十分にとどこおりなく終了した。箱根を愛し、ここを布教の本拠とした明主の霊、ながくやすらかにここにとどまるであろう。

 昇天祭もすぎて、はや四十余日、明日は五十日祭を迎えるという三月三十日、午前十時より十二時半にかけて新装成ったメシヤ会館において、二代教主の推戴式が八千人の来賓信徒を前にして盛大に執り行われた。

 まず祓戸<はらいど>の儀式にはじまり、玉串奉奠、天津祝詞の奏上、ついで二代教主を前に、信徒一同が起立して宣誓の辞をのべた。つぎに来賓の祝辞があり、柳原白蓮女史は祝いの歌一首をよせた。「これやこの玉を抱ける君ならし光あまねくあらしめ給え」。ここに二代教主として来賓信徒に挨拶があった。その落着いておだやかな物腰、やわらかな口調のなかに凛とした決意をひそめたおごそかな言葉に、信徒はふかい感銘をおぼえ、「牡丹花咲き定りて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」(木下利玄)の思いひとしおであったという。

 八月十二日、宗教世界会議の地方会議が、熱海メシヤ会館にひらかれた。西から東から南から、世界の宗教家の代表、この一堂に会して、世界恒久の平和のために、人類永遠の幸福のために、ふかい祈念をこめての集いをもった。海に展<ひら>く水晶殿の末広がりに円形の窓、ああ、明主の構想になる浄玻璃の窓──世界救世教の幕<とばり>は今や海のかなた遠く、世界の国々、人々にむかって、さわやかにおおらかにひらかれてゆく。真夏の海は躍っている、輝いている。

 コトバあり、「汝、永遠の生命<いのち>とともにあれ!」