四 霊肉とも救い

 どんな人間でも幸福をこいねがわないものはあるまい。幸福こそ、人間のもとめる最初にして最後のものである。幸福には、病気・貧乏・闘争の三つの大問題の解決が根本である。三つの苦悩からの解放が基本になる。三大苦からの解放はそれ自体、幸福であるが、しかし厳密には「幸福の門」にすぎない。幸福への第一歩である。人は病貧争のない世界に、真善美が完全に実現される世界を建設し、ここに生活しえて真の幸福といえるのである。真善美の完き実現というのは、真の意味での美ということであるから、その世界は美の天国であり、芸術の世界である。ほんとうの幸福の生活というのは、こういう境涯をいうのである。個人の家庭生活においても、このような小天国をつくることを考えねばならない。

 明主はいう。アメリカの哲学者のピアスが唱導し、ウィリアム・ジェームスにいたって、世界的な哲学思想となったプラグマチズムを実利主義・実行主義と訳すより、行為主義とした方がよかろう。ここに宗教プラグマチズムすなわち宗教行為主義を提唱したい。

 これは宗教的行事や戒律、禁欲や苦行などの実践、つまり実生活からはなれた一種の精神修養などを重視しようとするのではない。哲学プラグマチズムが、実生活に哲学をとりいれ、役だつものにしようとする考えとおなじである。つまり宗教を生活にとりいれるというより、宗教と生活を密接不離な関係にまでとけ込ませようとするのである。だから宗教生活といっても、独善的な超世間的な点を最もきらい、あくまで一般人とおなじで、その言語行動が常識をはずれないものであるのはもちろんである。そして信仰の臭味をなくするようにつとめ、すべて常識的で、信仰がぴつたりと身についたようにしたいのである。

 ここでは生活即宗教であり、宗教即生活であって、いわゆる宗教生活とか、宗教的生活にみられる、宗教的臭味を一番きらうのである。味噌の味噌臭きは真の味噌にあらずだ。宗教と生活が一体になって、はじめて宗教の生活実践といえるのである。宗教は生活のためにあるのであり、生活を向上させるために宗教があるのである。宗教の生活的実践とか、生活における宗教的実践などがぴったりとひとつになるようにしたいのである。

 この考えは救世教を単なる精神主義にとどまらせない。また救世教がもともと神霊療法による病気治しから出発し、病気を治して健康にし、すべてのわざわいの根源である病気をなくすること、そして病気のない世界にしたいということから出発していることにもよる。

 いわば救世教は宗教としては、健康への祈りから出発し、健康による生活のたて直しをし、悪や争いのない家庭や社会を建設しようとする。人は健康美のなかにあり、芸術美のなかにあれば、精神は浄化され、品性は向上し、悪は発生しない。善も悪もその発生は条件と環境による。清潔のなかからは蠅も蛆もわかない。汚物のなかからそれらがわくのである。

 今日の地獄社会のような雰囲気では、下劣な人間が造られ、青年を堕落させ、いたるところ社会悪の温床たらざるはない。ところが救世教の理想とするところは病貧争なき世界を造るにあるのだから、人々は健康で豊かで、和気靄々たる歓喜の生活を送らねばならない。そこで、地獄的社会をのがれて、天国的な塵外境に遊ばせ真善美の天国的気分に浴さしめ、歓喜の境地にひたりながら、高い情操を養わせるのである。

 家庭の悪も、社会の悪も、その環境の腐敗や混濁のなかからうまれる。腐敗や混濁のもとは病気である。病気は清潔でない。腐敗をつくろ根本の条件だから、まず病気を治すのが大切である。病気のない健康の生活、それはすでによい生活である。しかし、人には欲望の本能がある。そのままほっておけば、本能的な欲望にのみ走って、また不健全な生活に、そして不健康な生活におちこんでしまう。そこで、この点を考えてみる必要がある。

 「人はパンによりてのみ生くるものにあらず。」という言葉がある。肉体の生命をささえるためには食物が必要である。しかし人間は単なる肉体的な存在ではない。同時に精神的存在である。肉体に糧が必要であるように、精神にも糧が必要である。 精神の糧は真善美の栄養をふくんでいなければならない。真善美の栄養は精神を健康に美しく保つとともに真善美の生活を創造するエネルギーとなるのである。そして真善美の栄養は悪を生産するエネルギーとはならないはずだ。美しい花や美術をみては恍惚として美の法悦にひたるであろう。ところが美しい花をみて強盗を思いついたり、美しい芸術に接して、殺人の衝動にかられるようなことはまずあるまい。

 健康ということは、身心ともに健康でなければならない。たとえ精神は善良であり優雅であっても、生命をおびやかすような病気にかかっていては、生活のよろこびも光明もない。生活のよろこびのないところに幸福はない。幸福は生活のよろこびのなかにあるからだ。

 したがって人は、幸福の根本の条件である健康をつくり、あわせて精神の健康をもとめなければならない。宗教もまた人生の幸福を目標としている。宗教の真の救いは精神ばかりではだめで、肉体もともに救い、霊肉ともに健全にするものでなければならない。すなわち物心両面の救いでなければならない。そして物心共救いの根本は、なんといっても病気を治して健康にすることだ。

 たとえ金銀財宝、美しい住宅や美食にめぐまれ、どんなに高い地位や名誉をあたえられても、病苦になやんでいてはなんにもならない。なんらの生活のよろこびなどはない。いわんや病死してしまうんでは、一切がゼロである。だから救いの第一条件は、まず健康である。といっても、宗教の病気治しはまちがっている。宗教は精神的救いであり、病気は医者が治すものである。だから宗教の病気治しは科学の領域を犯して面白くないという。しかし一体、人間というものは科学が造ったものか、それとも神が造ったものかを考えてみるがよい。科学者でも科学が造ったものとは思うまいし、神が造ったものということに異論はないであろう。異論がないとすれば、神様に治してもらってもさしつかえないはずだ。

 ところが、病気から救うのは医者であり、精神の救いをするのは宗教である、というように肉体と精神とは別々にうけもって救う分業制度になっている。それはそれでよいのである。医者は病気を治すとともに、精神をも救っても一向にさしつかえないが、医者は病気を直すのが精一杯、心の方までは手がまわらないし、また心を救うほどの暇も能力もない。そこで半分の救いだけで満足しているわけだ。しかしえらい医者があって、どんな病気でも簡単に治してしまううえに、精神をも救ってくれたら、これにこしたことはあるまい。それはけしからんことだ、医者の風上にもおけない奴だと、無能な仲間から爪はじきされるであろうか。されるとしたらそれはする方がわるい。そんな奴に対しては、力もないくせに、だまって引っ込んでいろ、というより仕方があるまい。

 人類を救済することが医者のつとめだ。そのつとめを忠実に実行して、文句をつけられる筋合ではあるまい。医者は病気を治すのが天職であるが、お前は身体の病気だけを治せ、決して精神の病気を治してはいけないと、神様が命令されたとはきいていない。さらに心の病気まで治すのはけしからん、われわれの繩張り荒しで、職業妨害、宗教妨害であるから、医師法違反、オットまちがった宗教法違反だなんていわれて、警察に呼びだされたりするであろうか。今まで精神の病気をも治すことのできる有能な医者がいなかったし、そこまで手をださなかったから問題もなかったんだ。第一、医者は医学という実証科学の研究者で、精神は認めるが、神霊などは認めない無神論者ということになっているからだ。

 そこで神仏を信仰したり、神様などの話をする、とすれば特に医者だから変っているというのだ。医者は神様など信じないのが一般で、科学一辺倒であるのが普通である。しかし無神論者が真の科学者であり、医者である、としたら日本の無神論の医者はみんな優秀であり、アーメンなどという外国の医者はみんな劣等だということになる。

 科学の世界には神を信じてはいけないという規則があるわけでもあるまい。信教は自由なはずだから。神を認めない者は、無理に神を信じる必要もないし、信仰を強制されることもない。が神を認める者が信じるのは一向にさしつかえない。

 一方、宗教家は精神の救いを目標としている。心の病気を治す医者だ。この方だって心の病気を治すうえに肉体の病気をも治すことができれば、これにこしたことがない。神様だって、そう思うだろう。ところがこっちの方はそうは簡単にゆかないらしい。第一、そっちへ手を出すと、宗教家の仲間から爪はじきされる。第二に医者の商売の繩張り荒しになるから、医療妨害というわけで、医師法違反にひっかかる。第三に病気治しなどをする宗教は、科学の領域を犯すインチキ宗教だといつて、世間からやつつけられる。

 医者の方では自分たちの商売を守るとりでとして、医療妨害とか医師法違反というものがある。ところが宗教家の方には宗教妨害とか宗教法違反なんていう法律はない。してみればこれは片手落ちだということになりかねない。なりかねないどころか、片手落ちにはちがいない。しかし、心の問題の方は、さしづめ命にかかわらないから問題にならないだけのことだ。これに反して医療の方は、人間の一命に関係するから問題になるんだ。

 第一、宗教は人間生活に必要なもので、よいものだということは、一般の認めるところであり、また通念である。ただ「宗教は阿片なり」という一部の人々は別であるが。しかしよいはずの宗教や宗教家のなかにも、あきらかによくないもの、インチキなもの、迷信、狂信、邪教に類するものが少くない。宗教の仮面をかぶつたもの、あやしい擬似宗教が少なくないのもこまったものだ。宗教であるからには信仰である。しかしその信仰が正しい信仰であるか、正しくない信仰であるかによって異ってくる。

 そしてあやしい信仰をもつものを、迷信、狂信、盲信といい、そういう宗教を邪教といっている。昔からこういう邪教がよく病気治しをやる。それが甚だ危険であるから、放っておけないことになる。そこで宗教家には変な病気治しなどはさせない方がよいということになる。

 それでは医者の方で、病気は全部治してくれるなら、それでよいのだ。いかに医学が進歩したといっても、全部が全部治るというものではない。現在の医学では治らない病気がたくさんある。誤診だの処置の誤りだので、殺してしまうのもたくさんある。医者には治そうという意志こそあれ、殺そうなどという意志はないから殺人罪には問われない。しかし誤診だの処置の誤りなどは、さしづめ過失致死であろうが、あまり問題になったことを聞かない。結局、そんな医者にかかったのが、患者の不運ということになる。その上、医者からあなたはもうだめだ、一年ともちませんよ、などと直接もしくは間接に不治を宣言されるものが少なくない。こういう人はどうすればいいのだ。どうしようもないから、あきらめておとなしく死を待つか、絶望して自殺するか、最後の救いを神信心にもとめるかである。

 医者も医者である。あなたはもうだめだとか、一年ともちませんよなどと、平気でいうが、患者の身になってみるがよい。こういう言葉は慎重にしなければならない。それは今までの医学の研究や自己の臨床の経験から推定できることであろうが、そう断定される患者の身になってみたまえ、ことはそう簡単ではないんだ。いつたい神ならぬ身が死の宣告をあたえるにひとしいことをいう権利がどこにあるか。

 医者が患者に薬を投じ、手術をするのは、病気や傷を治りやすい状態において、患者自身のもつ治癒力を促進し、その効果を期待するものではなかろうか。患者の治癒力というのは、その生命力のはたらきの一つである。生命力の自律作用であり、回復作用である。

 人間の生命力は神秘なものである。真の医学は生命力に対して、謙虚なものであるはずだ。医学にとってもこの生命力はなお神秘なものであるはずだ。それは目に見えない、ただ神秘なはたらきとして内在するものだ
からである。

 この生命力は目にみえない神秘なはたらきであるが、これを物質的な細胞機能のはたらきと解するか、神霊的なはたらきと解するかによって、唯物的解釈と唯心的解釈とにわかれるのである。物質的な細胞機能のはたらきと解しても、そのはたらきそのものは神秘霊妙なものであることにはかわりがない。唯心的解釈にしても直観的にそれを神霊的なものとみるだけのことである。

 この神秘霊妙なはたらきは目にみえない霊的なものであるが、その霊的なはたらきがうまれてくるには、そこになにものかがなければならない。そこで物質はどうしてなりたっているか、なにが物質をなりたたせているか、特に生物の細胞組織はどうしてなりたち、かつその細胞組織はどうしてうまれてくるか、ということに思いをひそめるようになる。生命の神秘の鍵をもとめるのである。

 物質は原子からなる。その原子構造のなかに、原子相互の結びつきを可能にする霊妙なはたらきをする電子というものを認める。しかもこの電子は接触せしめ融合せしめるはたらきであるとする。するとこれは物質の根源の愛のはたらきともいえる。

 そこで明主は、物質の究極は「霊子」であり、そのはたらきは「愛」であるとする。宇宙の根源にあるものは愛である。そして愛はあらゆる物質の根源に実存するところの霊子のはたらきであるという。要するに物質の究極にはあるものがある。それをある霊的なはたらきをもった微粒原子と考え、これを霊子と名づけたのである。そしてその霊子のはたらきを愛とみてとったのである。よつて宇宙の根源にあるものは愛であるが、それは宇宙大においてあるから「大愛」である。そしてこれは宇宙の意志とみるべきものであるから、大愛の精神ということができる。そしてこの大愛の精神こそ神である。故に神は創造のはたらきである。

 このような霊子観が、その宇宙観の核心をなしている。そして霊子のもつ自律的機能を霊的放射能と名づけている。そしてこれは浸透力と治癒力をもっている。霊子の霊的放射能による病気治しを、神霊療法とも浄霊法とも名づけているのである。この浄霊法による病気治しによって、医者に見放された病人を治しているのである。そして治るのだから奇蹟である。だから救世教は奇蹟の宗教である。

 それはともかく明主の霊子観は、物質的な解釈をすすめていって、神霊的な理解に到達したものといえる。しかしこれは思考の過程であるが、実は最初から、唯心的立場において神霊の存在を認めているのである。いわば明主は物質的解釈の究極に、自己のもつ神霊的解釈を適合させたのである。

 さて話をもとにかえそう。さきに医者に見放されたものはどういうことになる。落着いているものは、おとなしくあきらめて死を待つであろう。気の小さいものは、絶望して自殺するであろう。焦燥するものは、溺れる者は藁をもつかむで、宗教に救いをもとめるであろう。医者に見放されたものを救ってやるのは人助けである。生の執着から離脱させ、諦めを教え、悟りを聞かせて、煩悶する精神を救ってやるだけでもよい。半分だけの救いだけでもよい。そのうえ病気まで治してやれたら、身体もともに救うことになるからさらによい。これはほんとうの救いだ。そういう奇蹟を救世教は行っているのである。